2012年02月04日

LEE BUL展


森美術館でLEE BUL展が始まった。韓国の若手アーティストである。草間彌生に始まり何人かの世界的アーティストの影響も感じられるば作品には迫力がある。コンセプチャル建築模型のような作品もある。学生の卒計でこんなの出てきたらわけも分からず点をいれてしまうかもしれない。

2012年01月22日

今和次郎展


新橋の汐留ミュージアムで今和次郎展をやっている。1888年に弘前に生まれたとは知らなかった。青森なんだ。やはり泥臭い人は東北から生まれるのかなあ。と思いながら素敵なスケッチを見る。その昔早稲田に行っていた叔母さんが建築やるならと言って大学に入学した時に今和次郎全集をくれた。今から30年くらい前である。古本屋に売ったらいけないと言われてなんとなくその素敵なスケッチを眺めていた。今日その原図を見られて少々感慨深い。
彼は育つのに20年、絵に10年、農村に10年、衣服に10年、住居に10年、生活学に10年と自ら言うくらい幅広い人だった。建築が幅広い文化の上に載っかっているという僕の認識は少なからず今和次郎から来ている。建築家の中でこれだけ真剣に服飾のことを勉強して本まで書いているのは彼くらいである。改めて驚いている。

2011年12月18日

オルジャッティ展


先日東京都現代美術館で「建築アートが作り出す新しい環境」展をみてコラムにこんなことを書いた。
「建築の展覧会はどんなに頑張ったって「そのもの」があるわけではないから・・・
① アーティストとなって建築とはおよそあまり関係ないものを創作する
② 建築創作の思想をそれに代わる詩的言語あるいは造形物で代替する
③ 徹底して本物を彷彿とさせる何か(映像だったり巨大模型だったり)を提示する。
この中で①は本当のアーティストには勝てないのでやめた方がいい②は伝わらないのでやはりあまり得策ではない。だから③をやるのが賢明だ」と
そしたら現在国立近代美術館(竹橋)で行われているヴァレリオ・オルジャッティ展で彼が同じようなことを言っていた。
そこにあったのはプロジェクトごとに①1/33という不思議スケールの模型②詳細ドローイング③スライドショーのボックス④彼が啓発をうけた図像学的自伝と呼ぶ写真である。
このセットを見ると実にその建物がよく分かる。まさに建物の再現努力である。
建築の展覧会はこうあるべきだ。

それにしても彼の建物はとてもいい。大好きだ。建物をこれだけ造りこまずにできたら最高だ。殆ど輪郭線だけでできている。間仕切り壁のある建物なんて殆どない
しかしこれらの建物がこれだけシンプルなのは建物用途がシンプルだからだと言う気もする。一体かれが複雑機能の建物を作るとどうなるのだろうか?そんな仕事来たら断るのだろうか?それともやはりざくっと作っちゃえるんだろうか?

2011年12月04日

アーヴィン・ペンと一生三宅展

ミッドタウンの2121ではアーヴィンペンと三宅一生展をやっている。ペンの写真は先日ポーラ美術館で最も素敵だと感じ印象に残っていた。一生をどんなふうに撮ったのだろう?という思いで見にきた。しかしこれは80年代の僕らが学生時代、一生と言えばこの写真と言うあれだった。西武やパルコにはこの写真が溢れていた。とにかく度肝を抜かれた記憶がある。

モダン・アート、アメリカン


エドワード・ホッパー 日曜日 1926
国立新美術館でモダン・アート、アメリカン展が行われている。モダンアメリカと言えば戦後の抽象表現主義がすぐに頭に思い浮かぶが、向こうのその手の本を見れば19世紀末から話が始まるのは常識。
と言うわけでここでも19世紀末のリアリズム絵画から始まる。そしてヨーロッパから印象派を習い、それが抽象化されるのは20年代である。その代表選手は何と言ってもジョージア・オキーフ。草間弥生が憧れた当時の数少ない女流美術家である。そしてオキーフを持って初めてアメリカがアメリカオリジナルの絵を生みだし始めたと感じられる。一方オキーフと同時代にアメリカの都会を主題としてリアリズムを確立していったのがエドワード・ホッパー。これはこれでとてもアメリカらしい。
ところがその後キュビズムが入ってくるとまたヨーロッパの弟子のような姿になるのだが、戦後になって抽象表現主義と呼ばれるアメリカオリジナルのモダニズム絵画が花開く。
僕がUCLAに留学していた80年代はポストモダニズム絶頂期で建築が歴史主義でグレコローマンを具象的に模倣していたのだが、絵画でも抽象化の波は終わり具象が元気だった。大学ではアメリカンアートという授業があり担当教授のチャールズジェンクスは絵画もポストモダニズムの時代であると元気にリアリズム絵画を紹介していた。
この展覧会はその時代の前で終わってしまって少々残念だが、オキーフやホッパーを見るだけでも見る価値はある。

2011年11月20日

建築、アートがつくりだす新しい環境


東京都現代美術館で「0年代のベルリン」展と「建築アートが作り出す新しい環境」展をやっている。ここまで来たので両方見た。ベルリン展もそれなりだけれどとりあえず後者の感想。
建築の展覧会はどんなに頑張ったって「そのもの」があるわけではないから美術館でやる展覧会としてはちょっと他のアートとは違う。彫刻家がその写真とコンセプトだけを展示するようなものである。だから建築家は次のどれかをするしかない。
① アーティストとなって建築とはおよそあまり関係ないものを創作する
② 建築創作の思想をそれに代わる詩的言語あるいは造形物で代替する
③ 徹底して本物を彷彿とさせる何か(映像だったり巨大模型だったり)を提示する。
さてそうやってみると①を選択した人は悪いけれど建築家が本物のアーティストにかなうわけないのだからやめた方がいい。なんだか全く迫力が無い。②を選択した人は残念ながら伝わらない。その本物の脇にそうした思想の根源が置かれているならまだしも、美術館に置いて見る側にそれを想像しろと言っても無理がある。だから結局③をとるのが賢明だと僕には思える。その意味で今回の展示物で最も素敵だったのはヴィム・ヴェンダースの≪ロレックスラーニングセンター≫の3D映像である。近未来映画のようなシーンはフィクションとノンフィクションのボーダーに見る者を誘う。

p.s.ニーダーマイヤはポスターにもなっていて凄く見たかったのだが何処にも展示されていないのはどうして?

2011年11月19日

感じる服考える服展


オペラシティのアートギャラリ―で感じる服、考える服―東京ファッションの現在展覧会が行われている。この展覧会、10人のデザイナーの展示それ自体も気分が和らぐ楽しいものが多いのだが、それにも増して中村竜二の会場構成にちょっと驚く。だって目線の高さにずーっと梁がかけられていて先が見えないのだから。いい悪いは別にして展示物より存在感がある。カタログに会場構成の考え方が4ページにわたって載っているのも会場構成の存在をアピールしている。それによれば服は人体あっての服なのだから、展示も場所あっての展示でよいのでは、という発想のもをとに会場を20に区切ることを考えたと言う。それはいろいろな方法があるがその中からこの梁をかけ渡すやり方を選んだそうだ。
これは中村竜二の繊細な技からはかけ離れた無骨でなんのヘンテツモ無い、本当にただの白い梁なのである。ただそれが高さ1メートル50センチのあたりにあるのだ。
僕は展示のファッションを見ながらだんだんと違うものを見ていることに気付いた。それは生身の人の着ているファッションである。
普段僕らはしげしげと人の着ている服をみることはできない。素敵だなと思ったってせいぜい2秒である。それ以上見ていると怪しげな輩になってしまう。しかしこのバーがあるとお互いの目は見えないからしげしげと見ている自分が相手には分からないのである。これは結構不思議な感覚である。面と向かって3メートルくらいの位置でその人の服装をじーっと凝視していても大丈夫である。
これこそが今の東京のファッション観察である。展示が無くても十分展覧会の目的が果たせると言う意味ではこの会場構成は凄いものである。

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