« 第二講お題 | メイン | 第四講お題 »

第三講お題

今日の講義のテーマはdesignである。そしてこの言葉は両義的な意味を持ってきた。一つは概念あるいはその概念の形象化としての図面。そしてもう一つはその概念(設計図)をもとに作られた建築それ自体である。この概念と物の対概念は様々なものの考え方と関連する。たとえばアリストテレスの形相と質料などである。
建築の歴史はこの石工や大工が身体感覚で作り上げるということに始まり、近世になりやっと芸術という分類に格上げされ、それとともに概念化(科学化)されることで学問としての地位を得た。つまり身体で作るという行為よりもむしろ概念化する(設計図を作る)ことに重きが置かれた。そしてその流れが今でも続いている。図面を書いてから模型を作る構想してから形にするというプロセスをたどることが普通となった。しかし、昨今では模型を作ってからそれを図面化する、つまり形を作ってからそれを概念化する(設計図化)という逆のベクトルをたどる場合も少なくない。
さてここで質問だが、物事は構想を練ってから行動に移すというのが普通であるが、行動してからそれを事後的に振り返って概念化するということもないではない(上述建築のように。しかし厳密に言えば、建築自体を図面なしに建ててそれを図面化するということなのだろうが)しかしはたしてそういう態度は世の中において意味ある行為なのだろうか?そしてそれは何を生み出すのだろうか?そしてあなたはそこに意義を見いだせるだろうか?対象は建築には限定しない。文芸でも音楽でも何でも構わない。適当な対象を掲げて論じてほしい。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ofda.jp/lab/mt/mt-tb.cgi/4151

コメント (23)

武智靖博:

現役坂牛研の武智です。

先生に催促されて、というわけではありませんが、ここで議論を少しでも盛上げるためにひとつ提案。

これから毎回院生の賞とは別に、武智賞を差し上げるというのはどうでしょう?

評者が複数いれば、論点に多様性が生まれるのも事実です。

いいですかね、先生?


というわけで、受賞された方は嫌がらずに、喜んで、謹んで受け取ってください。

ではみなさんの解答、楽しみにしています。

浅野研究室 09TA307J 小澤明也:

これから書き込まれるお題に対する答自体が意義のあることを証明しているのだと思う。自分に対する自分への概念化とは、我々が知的にも身体的にもブレイクスルーを迎えてしまったことを意味する。それは、自分を1秒前の自分とは違う自分へと変えてしまう行為と言えばいいのかもしれない。それに意義がないと思う人ないないと思う。もし意義がないと思う人は、生まれてからなぜ自分は言葉をしゃべれるようになったかを考えた方が良い。あと、「しかし、昨今では模型を作ってからそれを図面化する、つまり形を作ってからそれを概念化する(設計図化)という逆のベクトルをたどる場合も少なくない。」という部分で思ったのだが、設計図化が概念ならば、模型化も概念ではないのか。加えて言うと、曖昧な言い方だけれども、模型化してから図面化するプロセスは、図面化してから模型化させるよりも、現代人の知性の使い方には適応が良いのではないかと思う。簡単にいうと模型化のほうがなにかと早い気がする。(目の前にあるクシャクシャの紙だって模型と思えば模型になる)私は、昨今において設計のプロセスが逆ベクトルをたどることは当然だと思うし、それで良いことばかりかというとそうでないと思う。

柳瀬研究室 09ta338j 原尚平:

 今回のお題を見た時に、小学校2年生の図工の授業で作ったインド人を思い出しました。その時の課題が空き缶や空き瓶と紙粘土を使って形を作るというものでした。何を作ろうか全然思いつかなくて、とりあえずなにも考えず適当に粘土をこねながらできたものを瓶の適当な部分にくっつけていくと、なんとなくインド人があぐらをかいている姿が見えてきました。その時点では胴体(瓶)とあぐらをかいている足(紙粘土)だけでしたが。(たぶん瓶が茶色かったからインド人になったんだと思います)そこから頭と腕を付け加えてインド人を完成させたことを覚えています。
 さて、そこで今回の何を生み出すかという問に対して、自分は「偶然の産物」という答えを出しました。もし瓶が横たわっていたら、もし紙粘土が球体だったらインド人という結果は出てこなかったかと思います。偶然瓶が立っていて、偶然あぐらをかいているような角度の紙粘土ができ、瓶の底にそれをくっつけるという偶然が重なることでインド人という結果が生まれました。これはまさに「偶然の産物」ではないでしょうか。
 次にこのような態度が世の中において意味がある行為があるかという問に対しては建築に例えて答えようと思います。上述したインド人のように偶然が重なることで出きた空間が何らかの性格を帯びた場合、そこにこの行為の意味が生まれてくるかと思います。簡潔にいうと「結果論」です。結果としておもしろい空間や新鮮な空間ができなければ「失敗」になるかもしれませんが、偶然できた「失敗」が重なることで、おもしろい空間に近づくことができればその行為は十分に意味が出てくるのではないかと思います。この行為は失敗する確立の方が大きいかと思いますが、図面という「概念」だけではできないような空間の可能性を秘めている行為でもあるかと思います。

武智靖博:

たびたび坂牛研の武智です。


既に先生に言われているかもしれませんが、皆さんのコメントの書き方に関して一言。

まず、「トピックセンテンス」を書いてください。そこで自分の考えを簡潔に述べた後に、「起承転結」を伴った文章構成とし、分かりやすい文章を心がけてください。

文章を書くものがいれば、読む人がいるのは当然のことですよね。読まれるために書くわけですから(最近はそうでない人もいるようですが笑)。いくらおもしろいことを考えても、それを相手に伝える術をもっていなければ、その考えは存在しないに等しいのです。

みなさんが思っている以上に、どう伝えるかということは大切なことです。

せっかくの議論の場所ですから、考え方と同時に、伝え方も意識してトライしてみてください。

柳瀬研究室 09ta342g 細井一宏:

 形にしたものを概念化する意味とは。僕はこれを、制作したモノについて、また自分の考えを他者に伝えることだと考える。
 例えば、創作料理をつくり友人に食べてもらったとする。友人はまず、料理の彩りを目で楽しむだろう。そしてその後、辛いだとか、酸っぱかったりと、料理について味わうことができる。しかし、これは料理をある側面からしか捉えることができていない。普通はこれだけで十分なのかもしれないが、例えば、料理について作り方や使っている食材を伝えたい場合どのようにすればいいのだろうか。
 このとき必要になるのが形の図面化(ここではレシピ化)である。料理を違う角度から表現することで、より多面的に、より詳細まで料理を理解してもらえるだろう。また料理のレシピに限らず、地図や折り紙の作り方などの表現はある程度ルールがあるように感じる。共通したルールによりあらゆる人が正確に表現されたものを理解することができるだろう。このことからも、形の概念化と他者への伝達はつながっていると考える。
 創作料理はその都度味を確かめながらつくっていく。始めから味を想像してレシピをつくることは難しい。このような場合は料理をつくってからでないとレシピをかくことができず、形から図面化という逆のベクトルとなるのではないか。
 上に述べたように、形をつくりそれを概念化することは、他者に制作したモノを伝えるために必要なことであり、多面的に、ふれあいの機会や理解の機会を与えることだと考える。作り方を忘れないように図面化して残す。これも未来への自分に伝えるということではないだろうか。

ushi:

武智先生宜しくお願いします。だてに歳とってないところをがつっと見せてやってくれ。神山賞や松田賞もできるかもしれない。おっ新宮、望月、兼子も忘れてはいないぞ。ついでにm2の論客も参加したらどうだ?yko,勉強になるぞ(
?)武智賞に異議ありなんて場外乱闘を期待する。

09TA328A 田中邦幸:

 建築の分野での模型(実物)から図面(概念)へのプロセスの逆転はほかの分野でも確かに存在している。その中でも、物理学は顕著である。(ただ、概念から実物への逆の転換である)
 現在、物理学は実験物理学と理論物理学に大きく分けられている。昔は、単に一つの物理学であり、実際の自然現象から理論化を行っていた。しかし、物理の法則が明らかになるにつれ、新たな法則を見つけるのには膨大な知識量が必要となり、専門分野へと分化していった。分化していったことで何がおこったか。それはいうまでもなく新たな物理の法則の発見と物理学の発展である。有名な例では、アインシュタインの相対性理論。理論が先に現れ、その後日食時に観測された星のゆがみにより証明された。これにより、物理学は一つの転換点を迎えた。そして、現在はこの二つの物理学が互いに刺激し合い発展している。
 多くのことを考えなくてはいけなくなった建築の分野でも、模型→図面、図面→模型、図面→CGなどの概念化の変化を経ることで、見落としがちであったもの、新たなものを発見できる。これは、構造から建築を考えたときに出来る新たな形態の発見にもつながっている。プロセスの変化により、考えの転換点となり、自分の中の考えがまとまり、深まっていくのだと思う。

09ta327c 立野駿:

今回のテーマはデザインである。
私が思うに今回の質問である物事は構想を練ってから行動に移すのが普通だが、その逆のベクトルを辿る場合の意義について、逆のベクトルというのはまさに閃きや思いつきなど感覚的なものが先行しているのではないかと考える。どちらもデザインであることは言うまでもない。
建築において図面を書いてから模型を作ることと模型を作ってから図面化するのも実際はある程度頭の中に形ができている。それでいて模型でここを直したいと思うのであれば頭の中で図面を書き直しているのではないか。大げさに言うと作業を省いているとも言える。それは効率が良いとも言える。たしかにこの場合逆のベクトルを辿ることでわかりやすさや伝えやすさが生まれるが、正確性はないのかもしれない。ただデザインして大事なのは伝えることである。武智さんが言うようにこの文章も一つのプレゼンでありデザインだと思う。
このように建築において逆のベクトルを辿ることによって感覚が先行し、それに伴い逆のベクトルだからこそ生まれる新しい発見があるのではないか。ここには大きな意義があると思う。よく音楽の作曲について、アーティストごとに先に音楽を作ってから歌詞を付けるとか歌詞ができているものに音楽を付けるなど聞くがこれも同じことだと考える。それはアーティストごとの「スタンス」に過ぎないかもしれないが。
しかしこの建築において逆のベクトルでも他のことに大しては逆のベクトルではない事例もある。たとえば子供の粘土あそび等が挙げられる。実際は頭で考えながら作っているのかもしれないが子供はただ無垢に形を作っているように思える。触っていたらこれができた、という感覚である。
今回の質問は前述したようにこのような感覚が先行する一つの例であると私は思う。それに加え物事は構想を練ってから行動に移すというのが「普通」という考え方にも疑問を持った。それが日本人の良いところであり、悪いところであることもわかる。この「普通」という考え方にも言及しなければならないとも感じた。そもそも普通のやり方などない。普通という物自体ないのかもしれない。

竹森恒平:

「物と概念」は「鶏と卵」ではないかと考える。
 「鶏と卵」であるとは、相互に繰り返しながら継続していく間柄にあるということである。つまり、概念→物というヒエラルキーが存在し、その特異な例として物→概念があるのではなく、これらは概念←→物という関係を常に繰り返す、等価なものであると考える。つまり、新しい概念が新しい物を生み、その新しい物がまた次の新しい概念を生んでいくということである。
 例えば、建築の設計を行う際、まず敷地を見て、これからつくる建築を何となくイメージすると思う。そのイメージが「物の元」ではないだろうか。次にそれを言葉なり、スケッチなりで抽象的に概念化してみる。これが「概念(図面)の元」となる。そして、その抽象的な概念から、できあがる物のイメージなり、インスピレーションなりを受けて具体的な形への方向を決める。そして、それを図面へと概念化し、またそこから物をイメージして再び図面を書き直す。このように物の元と概念の元は交互に互いを変化させていき、最終的には完成形の図面(概念)と完成した建物(物)が残るのである。
 このようなプロセスは人間が何か新しいものを扱おうとしたときに現れるのではないかと考える。何か新しいものを見つけた際に、それが見られる物(そのイメージも含む)を概念化し体系的に扱ってみる、そして既存の概念に当てはまらない部分を拾い出し、そこからさらに純粋な新しい物を作り出す。このようなプロセスを経て、人間は新しいものを自分たちの理解の範疇に納めるのではないかと思う。
 つまり、概念→物と物→概念という考え方は両方に同等の価値があり、それらが繰り返されることで、人間が新しいものを扱う手段としての意義が生まれるのだと思う。

土本研究室 09ta330c 寺田聡子:

行動してからそれを事後的に振り返って概念化するということは、意味ある行為だと思う。

詳しくは覚えていないのだけれど、どこかの企業でトイレを開発している人にスポットをあてている番組があった。その人は、トイレの水が跳ね返らないようにするための開発をしていて、いろいろな形をした疑似の便を、位置を変えながら、トイレに落とすという作業をひたすら繰り返していた。そして、その作業をもとに、水の跳ね返り方をデータ化し、それをもとにトイレを開発するのである。

この場合、行動してから概念化するということは必然である。概念ばかりを考えていても、実際どうなるのか、行動してみないことには、水の跳ね返り方などわからない。行動に対してどのような反応があるのかわからない場合、とりあえず行動してみたほうが答えへの近道だと思う。

土本研究室 09TA347H 脇坂日南子:

 よく考えた末に行動を起こすのか、とりあえず行動を起こすのか。どちらが意味のある行動なのだろうか。私はその行動の意味が生まれてくるのは、その行動の結果が出てから決まるものであると思う。その結果が良かったり、自分を満足させられるものであれば、どちらの行動をとったとしてもその行動は意味があったと考えることができる。よく考えた末の行動であれば「事前に考えていたことで結果に繋がった」と考えることができるし、とりあえず行動を起こしたのであれば「あれこれ考えず、まずやってみたことで結果に繋がった」と考えるだろう。そして、どちらの行動も結果が失敗だった場合には、「あれこれ考えずにやってみればよかった」「もっとよく考えておけばよかった」と、自分の行動を反省することになると思う。
 私は、この考え方は、料理をつくる際に当てはまると思う。分量や材料をよく考えて進める料理の方法と、とりあえずあるものでカンを頼りにやってみるという料理の方法があると思うが、どちらも美味しくできれば、どちらの行動も意味があったのだと考える。
 人は、結果が良ければ自分の行動を正当化するのだと思う。「結果より過程である」という意見もあるかもしれないが、過程も、その行動を振り返った結果であると思う。すべての行動において意味を見出すのかどうかは、その結果次第であると考える。

坂牛研究室 09ta310j 加藤光:

「行動したのちに概念化するという行為」の意義は、いま、存在する常識からくる“予測”を裏切ることにある。したがって、これにより、固定観念から脱した、新たな道が提示される。
ここで、この事例として、サッカーの「フェイント」を挙げたい。本論で述べるフェイントとは、プレーヤーが、周囲の状況や、相手の行動に対する反応・反射により行い、成立したものであり、事後的に、フェイントそのものに名称が付くプロセスを辿る(クライフターン・マルセイユルーレット・カズフェイント等)。これらは、当人の思考よりも先に体が反応することにより、サッカーのセオリーや、練習において刷り込まれた動きなどとは異なる動きを生む。そして、相手の瞬間的な動きの“予測”を覆し、実際の場面で相手をかわすことができるのである。しかし、ここで生まれた新たな概念(=フェイント)は一度、名称が付き、世間に広まると、プレーヤーの予測の範疇におさまり、それにより生み出されるものは、概念が先行した行動(=フェイントの方法・特徴・長短所を認識した上での攻防)となる。その状況でも、予測したもの同士の攻防となるため、この攻防に勝つことは十分可能であるが、以前のようには上手くはいかないだろう。そこで、プレーヤーは再び反射的なフェイントを生み、それが再び予測を裏切る手段となる。
つまり、行動が先行した概念は、予測を裏切ることによって新たな道を提示し、これらは概念化した後に、再び予測の範疇におさまるようになる。そして、この概念は行動を生むようになり、ここで再び行動が先行した概念による、新たな予測の裏切りにより、さらに新たな道を提示する。すなわち、概念は“予測”の基に成り立ち、この予測を裏切り、より高次へと転換することこそ、「行動したのちに概念化するという行為」の真の意義であると考える。

坂牛研究室 09TA340A 藤岡佑介:

形と概念の関係。これらの関係のベクトルは、向きがどちらであっても、それは「一般化」を意味すると考える。
概念→形の例として小説の映画化を挙げる。ヒットした小説などがドラマ化、映画化されることがしばしばある。本来小説は具体的な手掛かりが存在していないから自分の頭の中で想像を作り上げるしかない。その際出来上がるイメージは、読む人によって全く違うものであろう。それが具体的な映像として転換されることで、そのイメージは固定され、普遍的なものへと変わってしまう。それはつまり「一般化」したと言える。
形→概念においても、ベクトルは「一般化」を意味しているが、意味合いが若干違うと考えられる。アートにしても、建築にしても、形を作っただけではそれは作品とは呼べない。作品は他者との関係によって初めて存在しうるものであり、評価される対象だからである。そのために概念として一般化することにより、他者と共有できるものへと転換する必要があると考える。
前者の意味での一般化のベクトルは、個々の違いを普遍的なものへの転換と言う意味で、ネガティブな意味合いであるが、後者のベクトルについては逆にポジティブな意味で捉える事が出来るように思う。形と概念が対の関係である以上、それらをつなぐベクトルを回避することはできない。ならばその順番を逆にすることでネガティブな要素をポジティブに変換できるのであれば、十分に意義があることだと考える。

柳瀬研究室 09TA319B 佐々木大輔:

柳瀬研究室 09TA319B 佐々木大輔 
 
 形の具現化を先に行うことは意義のある行為である。


 形の具現化が先か、概念化が先か。両者にメリットはあると思う。それは前者は感性的なものを生み出し、後者は現実的なものを生み出すように思える。どちらが良いということは一概には言えず、どちらも意義がある行為である。図面などの概念化に対し、この形の具現化という行為は、完成形をイメージする上で非常に有効な手段だと考えられる。建築の場合、形の具現化を行うのには多少の時間を要する。簡単なイメージ模型なら短時間で製作が可能だが、それは完成形とはほど遠い。しかし、最初から提出用模型程度のクオリティで製作するには手間がかかりすぎる。もし、この両者の製作時間が同じだとしたら、後者の方が完成形をイメージしやすく、圧倒的に有効である。このように、エスキス用の模型を製作している段階では完成形を具体的にイメージすることは難しいことである。
 しかし、スポーツの場合は、先に行動をしてから概念化することが最善の方法だと考えられる。例えば、野球においてボールを投げる、バットを振るという行為は形の具現化と考えられる。このような行為は、たとえ頭でシステムを理解していたとしても実際にやってみないと上達しない。一方、前もって教えられた野球に対する知識などを、頭の中で整理する、ノートにまとめるなどの行動は概念化である。
 建築とスポーツの違いは、形の具現化に要する時間の差である。スポーツの場合はボールを投げる、バットを振るなど、形の具現化に要する時間は一瞬である。完成形をイメージしながら実際にやってみること、その後自分の知識と行動を照合させ概念化を行い、それらを繰り返すことが上達への最善の方法である。しかし、建築の場合は形の具現化には時間がかかるため、具現化が先でも概念化が先でもどちらが良いということはなく、自分に合った方を選択すればよいと思う。
 しかし、近年では建築の設計においてcadなどの3Dソフトが普及している。模型ほどのリアリティはないが、2次元の図面と3次元の完成形を同時進行で作製することが可能である。これも形の具現化の一つだと考えられる。現在では概念化と具現化の境界があいまいになりつつあるのではないだろうか。

坂牛研究室 09ta343e 丸山日惠:

概念から形を作るということは、イメージされたものを整理して、より分かりやすく置き換え、それを基に形を作ることである。反対に、形から概念化するということは、頭の中にイメージされたものをまず行動することで表し、それを人に伝えるために何かに置き換えることである。今回のお題は、後者に対してであり、形から作ることの意義と形を概念化する意義の2点から論じることで答えとしたい。
まず形から作るということは、頭の中に存在するイメージを目指して、とりあえず感覚で作ることから始まる。それは簡単にできることではなく、試行錯誤してできるものであり、概念から形を作るように整理されたものではない。感覚を重視して(頼って)作ることが形から作ることの意義であると考える。
このように考えると、芸術作品に多く感覚から作ったものが存在する。しかし、これらはここで完結し、概念化していないものは多くあるのではないかと感じる。そこで概念化する意義を考える。
それは、細井君の意見と同じで人に伝えることにあると思う。感覚というのは人それぞれのものではあるが、誰にでも伝えたい共感して欲しいという欲求があるのではないか。感覚で作られたものを実際に体感できるならば、それが一番理解できる方法であるが、そうでない場合、それを理解することは困難である。しかし、私は実物を見たことのない建物を図面によっておおまかに把握することができる。これは概念化された図面が実物の建物の情報を伝えてくれたのである。すなわちここに概念化する価値があるのではないか。つまり概念化する意義とは、感覚によって作られたものを実物なしで人に伝える(説明する)ことにある。例えとしてお題に出てきた音楽では、感覚で作ったメロディを概念化した楽譜によって、実際に聞かせなくても表現したい音楽が伝えることができる。概念化とは場所や時代が異なっていても関係なく伝えることのできるツールである。
よって、形から概念化することは、概念化から形を作ることとは違ったよさがあるのではないかと思う。

土本研究室 09TA325G 髙橋 翔虎:

 「行動してからそれを事後的に振り返って概念化するということ」の例として、直感的に思い浮かんだ例が2つあったので、2つ書かせていただきます。
 まず、1つめは「恋」です。誰かを好きになったらたいていの人は、好きな人と同じ場にいなくても、頭の中に好きな人の顔などを思い浮かべるとかなど、好きな人のことを考えるようになりますよね?これが事後的な概念化にあたるのではないだろうか。では、行動にあたるものは何になるのだろうか。人は誰かをいつのまにか好きになるので、行動にあたるものが何になるのか・・・僕が考えるに、無意識のうちに人を意識すること?だと。つまり、脳が勝手に行動するということなのですが・・・
 長々とすいません。ここから先生の質問に答えます。
 「行き当たりばったりだ」、「何も考えてない」などなど、「行動してからそれを事後的に振り返って概念化するということ」に対して、すごく否定的な人が多いのではないでしょうか。でも、僕が例に出した〝恋〟に関しては、「行動力がある」などなど、賛美をあびせることもしばしばですよね。〝恋〟に関しては、「行動してからそれを事後的に振り返って概念化するということ」で、良かれ悪かれ結果がでるわけで、どっちに転んでも、その人の人生において、何か(何とはそれぞれなのでわかりませんが・・・)を生み出しているはずです。したがって、〝恋〟は、その人の人生の分岐点になっているはずですよね?意義も人それぞれなので、わかりませんが、少なからず僕にとっては意義のあるものでした。

土本研究室 09TA325G 髙橋 翔虎:

すいません、2つめは時間切れなので、いつのひかにさせていただきます。

坂牛研究室 09TA308G 香川翔勲:

行動を事後的に概念化する意義を、他者に伝えるという点を評価し、最優秀賞を藤岡くんに、優秀賞を細井君、丸山さんに差し上げたいと思います。

みんなの意見に共通する、行動を事後的に概念化することの意義は、「整理」されることのように思う。さらに整理することの良さを述べた意見として二つに分けられる。整理することで、その行動自体を反省し、より高い次元へと高めていくことができる、つまり比較することを可能にするという意見。もう一つは整理することで、他の人にも伝えることができるという意見。この二つに分けることができる。
今回、自分は後者を評価した。
前者は、竹森君が言う「鶏と卵」の関係となり、行動が先行しているのか?構想が先行しているのか?というようになり、行動が先行する良さを捉えにくくしている。
それに対して後者は、行動が先行する良さを保持することができている。
自分も、立野君、丸山さん同様に、行動が先行することを、感覚を重視することとして捉えた。感覚を重視することは、行動を起こす人のオリジナル性がより顕著に表れるように思う。その個別の感覚を他者に伝えることに意義があると考え、後者を評価した。
このことを最も巧く説明したのが藤岡君である。「一般化」という言葉を使い、形→概念、概念→形という両方のベクトルの説明を行い、説得力を強くもたせたところが細井君、丸山さん以上に長けていたように思う。
細井くんは、その都度味を確かめながらつくっていくという部分が、構想よりも行動が先行する良さを示唆しており、創作料理という例を挙げ、わかりやすく説明している点が良かった。
丸山さんは、形から作ることの意義と形を概念化する意義の2点にしっかりと分け、論じている。形から作ることの意義を把握しようという試みが他の人には無い視点であった。

行動を事後的に概念化する意義を、他者に伝えるとした。その時、重要になってくるのが構想よりも行動を先行させる意義を考えることではないのか?
行動を先行させる意義として、余計な知識や、習慣に囚われなくて済む、つまり竹森君が言う「物の元」を純粋に作ることができると考える。

牛:

今回もなかなかよいできである。それなりに皆考えている。

今回僕は評者の意見とやや異なる。
藤岡君の案は→概念化について書かれているが先行する行動の意義について書かれていない。加えて概念化が個々の違いを普遍化するためだと書かれているがこの具体的な意味が分からない。これは例えばある人が歌った歌を楽譜化するというような意味だろうか?もしそうならその説明は丸山さんの書き方の方が分かりやすい。
一方丸山さんは行動先行の意義について「感覚を重視して(頼って)作ることが形から作ることの意義であると考える」と書いているが、これは意義ではなく、必要条件である。意義とはそうやってできたものに発見されるもののことである。
さて香川賞の二人への評価はこれくらいにして僕の目にとまったコメントをあげてみよう。
先ず脇坂さん、質問の意図を明快に解きほぐし極めて身近な二つの行動パターンを取り上げたその語り口は前回同様悪くない。脇坂節である。旦那になる人は相当やられるかもしれないな。
佐々木君の事例と比較も悪くない。竹森君の概念化と行動の弁証法も真理と思う。高橋君の恋も良いのだが、恋が盲目である(心の行動が無意識的に先行する)ことの意義をもっと語ってほしかった。「僕の場合は意味があった」という私的領域に持ち込んで終わらすのは反則である。

香川君が評価した藤岡、丸山の説明は魅力的だが、僕は事後的な概念化よりもむしろ行動先行の意義に重点を置いて書いた2人に注目した。それは原君の「インド人の粘土模型」という例とその特質としての「偶然性」、加藤君の「サッカーのフェイント」という事例と「常識からくる予測を裏切る」という特質。である。そしてそれらにおいては原君のコメントが二つの理由で優れていると考えた。実は原君のコメントでは事後的概念化については書かれていないのだが、行動優先の例と説明及びその文体の優秀さが欠点を補って余りあると判断した。以下判断根拠である。
一つ目の理由
事例の行動が初期の時点で目標概念を内在させないという点である。つまり何を作るか決めずになんとなく手が動いて気づいたらインド人だったという点である。サッカーの事例は行動初期に相手を抜くと言う目標概念を内在させているわけである。事後的に概念化するというその行動の本質は初期に目標概念を内在させないことで鮮明化するものと思う。その点で原君のあげた例がより僕の提示する内容に適していると判断した。
二つ目の理由
それは読み心地である。原君の文章は3段落に分かれ「今回」「さて」「次に」という接続詞でそれぞれの段落で始まる文章の位置づけを示している。これによって文章がスーッと入ってくる。もちろんレトリカルにこうした分かりや易さを拒否した文章は世の中にいくらでもある。しかしこの授業では分かりやすい文章をよしとする。一方加藤君の文章は段落がなく一個の団子みたいになっており読みづらい。
原君のコメントは事後的概念化について書かれていない上に、発見された意義が「偶然性」という比較的凡庸なものであることが気になるが、音楽やダンスで行動先行とはインプロビゼーション(即興)でありそこで生まれることは先ずは偶然性であろう。その意味で間違いではない。できればここから偶然性の意義にまで深化させると読み応えがでるのだが、まあよしとしよう。
武智先生が書いている通り、文章はできれば最初に全体の結論をまとめたトピックセンテンス(新聞の見出しを少し長くしたような)がありその後に起承転結をもって書くことが重要である。以上今回は時間があるのでたっぷり書いた。ゴールデンウィークスペシャルである。

先に書いてしまったが武智賞を楽しみにしている。

武智靖博:

今回のお題は「形→概念」とはどういった行為であるのかを問うているものです。ちょっと難しかったでしょうか?
あと、トピックセンテンスを理解していない人がいますね。簡潔に言うと、トピックセンテンスとは先に結論を一文で述べることです。一文で結論を言えないということは、まだ自分の中で整理できていない証拠です。先に結論言っていいんですかと思わないでくださいよ。いいんです。そうするとこで、読者は先を予測しながら読めるようになります。

さて、今回のお題の話しに戻すと、ほとんどの人が「形」と「概念」の関係の話しに終始しています。このような問われ方の場合、「形→概念」または「概念→形」という二項対比的な構図のみを議論しても表層的な話しになりがちです。
今回のポイントは「形、行動」と「概念」のレヴェルで考えているうちは、上のふたつの当たり前の構図をどこまで精緻に語れるかというとこまでしか発展しない、ということに気付くかどうかだと思います。分かりやすく話すのと、当たり前のことを話すのはまったく違います。実際に、今回の解答はその当たり前のことを述べているものが多かった。ならば、僕は「形、行動」と「概念」を媒介してくれるものを探します。

「形、行動」と「概念」を結ぶ性質は、「時間」と考えます。「形→概念」と「概念→形」では「時間」の質が違うのは経験的に理解できるのではないでしょうか。
えてして「形→概念」の方が、動的な「時間」の流れが存在します。例えば、原くんの「偶然性」や高橋くんの「無意識」的な操作によって、案が急激な加速度をもって動き出したことを体験した人は多いのではないでしょうか。
逆に「概念→形」であれば、先に「時間」の流れが固定されてしまいます。特に建築はその傾向が強いと思いますが。つまり、「概念」とは安定化という意味に近い。
だからここで問題にしているのは、その安定へと向かう過程での「時間の質」です。そして、「形→概念」の流れのなかで、「時間」のダイナミズムがどのように制作者に影響し、どのような可能性やクリエイティビティが見出せるのかに、僕は言及してほしかった。

香川くんが回答者に近い視点、先生の賞がまっとうな賞であるなら、武智賞はスーパー個人的な関心に基づく賞であると思ってください。すると、さっき言ったような「時間」については述べられていません。であるなら、武智賞はスタンダードを語りながらも、キラリと光る捉え方をしている方ということになります。
「形→概念」の気基本的な意義としては大きく2つあると思う。まず、事前に形にすることの「無方向性」と「主体の感性の汲み取りやすさ」。次に事後的な概念化における形との「フィードバック関係」であると思います。
「形→概念」における、「無方向性」を論じたのは原くん。「主体の感性の汲み取りやすさ」を指摘していたのは、立野くん、丸山さん。「フィードバック関係」を述べていたのは、竹森くん、加藤くん、藤岡くん、佐々木くん。さらに、「一般化」という言葉で「時間の安定化」をにおわせてくれたのは藤岡くん。
よって、論の展開と例示にまずいところはあるが、最優秀武智賞は藤岡くんに差し上げます。加えて、特別武智賞は高橋くんとします。なぜ僕が高橋くんを選んだかみなさん分かりますか?高橋くんのどの言葉が僕にどうひっかかったのか、余力のある人は考えてみてください。

先生、武智先生は勘弁してください(笑

小倉:

坂牛研M2の小倉です。

坂牛先生からM2もどう?とのお誘いがあったので、先生や武智さんのコメントの後ですが、少し書かせていただきます。

そこで、まず『概念→形』『形→概念』について。みんなの文章を読ませていただいたが、『概念→形』はしっかりと考えてから起こした行動のことで、『形→概念』のほうは考える前に感覚的に起こした行動であるとされているものが多い。しかし、『概念』と『形』の関係はそのようなものなのか?そもそもなぜ行動と感覚が『形⇔概念』の関係の中に突然現れてくるのか不思議である。また、感覚的か理性的かは区別できるほどはっきりしたものでもないし。
みんな単純化しすぎではないですか?

そもそも、『概念』とは考えることから始まり、物事を単純化し自分の扱いやすいように、いろいろなものをそぎ落とす行為のことが『概念化』であり、その結果作られるものである。また、『概念』とは考える行為の後の成果物であるため、人間の起こす行為はすべて『概念化』の後に起こる行為であるといえる。人間が何も考えないで行動するなんてことは不可能である。感覚的に動いたといってもそれは考えていることが意識されていないだけで、何も考えていないわけではない。そうすると、感覚的な行動も、理性的な行動もどちらも概念化された行為であり、『概念』が『形』に先行しないということはありえない。

また、建築において最終的に『概念』で終わることはない。だって、建築は実際の形になって完成するのだから。とすれば、今回のお題は『概念』が最終的な『形』に先行するか、もしくは最終的な『形』に『概念』が存在しないかということになると思う。

ここで『形』に「最終的な」とつけたのは、建築は『概念→形→概念→・・・→形』か『形→概念→形→・・・→形』というような過程をたどり作られるものであるからである。
そのように考えるとどうしても『概念』は『形』に先行する。それは避けられない事実であって、そうでないものはそこらへんの石ころのようなものである。

しかし、『概念』が『形』に先行することは避けられないが、その先行する『概念』を消し去ってしまうことは可能であると思う。そうするとそこには『形』のみが残り、『概念』の先行しない『形』ができる。
たぶん、これを読まれている方は「何か矛盾してない?」と思われるでしょう。「実際にできるの?」とも。
そこで、事例として青木淳の青森県立美術館(以下青美)を挙げます。青美は青木さんの「オーバードライブ」という考えによって作られている。その結果、青美は「青木さんが何をしたいのかわからない。(実際に訪れた人の感想)」建築になっている(らしい)。つまり、そこには『形』しか現れてこず、その裏にある概念が消えてしまっているのである。(ただ、完全に消えてしまっているのかどうかはわかりませんが、感じなくなるぐらい小さくなってはいるようである。)

この青美の例があるように実際にできているし、そこには大きな可能性があると感じます。


単純化することでわかりやすくなるが、そこに疑問を感じているM2のコメントでした。

やまたく:

坂牛研M2のやまたくです。ちょいと疑問に思うことがあるので投稿します。

>武智先生
お題に対する解答の深め方や文章構成がとても参考になります。しかし、その後の藤岡に対する評価にひっかかりました。武智さんは、藤岡の「一般化」という言葉に時間の安定化をにおわせたとコメントしていますが、果たしてそうでしょうか?

武智さんの言う「一般化≒時間の安定化・固定化」というのは、作品の制作者が、概念から形をつくる過程に生じる時間のことを示しています。
それに対して、藤岡の言う「一般化」というのは、作品の制作者と作品を鑑賞する人との概念を摺り合わせることを示しているのではないでしょうか?つまり、藤岡の「一般化」が示すものは「時間の安定化」ではなく、「概念の安定化・共有化」だったのではないかということです。

…と、武智さんに異論をしてみましたが、本当は翔虎への評価ポイントがわからなくて悔しい後輩の僻みでした。

武智靖博:

武智

小倉くん、やまたくの文章読ませてもらいました。
さすがM2といったきびしいところを突いてきてる。

小倉くんの「感覚的か理性的かは区別できるほどはっきりしたものでもない」との見解は同感です。ただ、小倉くんが述べた「『概念』の先行しない『形』ができる」といった見解と、僕の意見は異なります。
青木さんの「オーバードライブ」という操作の根底には、建築として見せるというよりも、どう「もの」としてみせるかという建築家としての姿勢があるように思います。それは、彼自身の倫理観に近いものと言えるかもしれません。ここで、倫理観=思考=概念と捉えてみます。つまり、形に先立って、彼のそのような思考が存在しています。だから、建築を通して彼の「概念」がにじみ出てこない、または、観者には読み取りにくいのではないか。そうすると、青木さんがやっているのは「『概念』の先行しない『形』」をどうつくるか、と言えるかもしれません。これもひとつの概念であり、思考ですね。

次に、やまたく。さすがですね。僕もそこは気付いていました。その上で少し深読みしたわけです。藤岡くんの図式が最終的に示しているのは、「概念⇔形」のベクトルが示す方向に関わらず、「概念」というステージが登場した時点で、概念の一般化が行われるということです。
やまたくが指摘するように、その一般化の範疇は観者まで拡張しています。すると、『「一般化」が示すものは「時間の安定化」ではなく、「概念の安定化・共有化」』というのは、ひどく正しいと思います。しかし、一般的には作者と観者の間の「概念の安定化・共有化」が行われているというとは、事前に、作者自身において概念の一般化が量られていると言えるのではないでしょうか。あくまで一般的な話しですが、つまり、時間は安定化された上で、作者と観者の関係が取りもたれるのだと考えます。
と、このように結構自分なりに読みました。今回は投稿文の長さを考慮して解説を省いたために誤解を生じたことは反省しています。

これからも自分の評価に疑問、反論があればどしどし投稿お願いします。みんなでこの講義の掲示板を盛上げていきましょう。

コメントを投稿

About

2009年04月27日 19:39に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「第二講お題」です。

次の投稿は「第四講お題」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。