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1 名前:坂牛 2004/04/14 19:33 ID:6flAaKq9
先ほどbbsができたばかりでこのシステムも先ほど理解したばかり。ちょっと改良の余地が残されていますが、最初ですのでご容赦。

さてこのbbsは見てのとおり3部構成です。
自己紹介は「受講者自己紹介」の所に、学科、学年、学生証番号、名前を記入してください。(ニックネームを入れた方は次回の授業で本名を教えてください)。

次に今日のコメント。これはこの感想のところに書いてください。
今日のコメントテーマは「無個性といっているものの個性とは何かーありは無印良品の印とは」です。

さてそれ以外の授業の質問、このbbsの質問その他自己紹介とコメントに含まれないものは「事務的」な質問の欄に記入ください。時間のある限りお答えしたく思います。

2 名前:削除済み投稿者 :削除
adminに削除されました。

3 名前:坂牛 2004/04/15 13:18 ID:Rcmg1KwS
前回の授業で言い忘れました。
前回の出席者は概ね15名程度でしたので、もちろん敢えて人数を減らすためのテストは行いませんでしたが。助手の方に聞いたら初回の授業は休講というケースも多々あるとのこと。逆に言えば初回は休み2回めから来る学生さんも結構いるかもしれません。

そ こでお願いですが、前回の出席者には最初から来ていただいたのですから、無条件で履修権利を与えます。そこで混乱を避けるために、前回出席者で履修希望の 方は、3.1自己紹介欄を記入ください。お願いします。またコメント欄の締め切りをお伝えし忘れましたが、毎週土曜日中といたします。
よろしくお願いします。

4 名前:米粒(46040) 2004/04/15 15:05 ID:N1fzTnpX [URL]
個性は周囲との関係性のうちにあって相対的なものだから、「無個性的」と言っていくら匿名的であったり、平板であったりしても、それが周囲との偏差を生む以上、それはやはり個性となると思う。
コー ルハースのgenericがインパクトを持ったのは、それがそれまでのいわゆる「個性的」な建築に対して、異化的なものであったからで、「無個性さ」こそ がむしろ特異性として受け取られたためではないか?コールハースが戦略的であったかどうかは置くとしても、彼の言う「種的」genericとは本来、彼の 手法がメインストリームとなってこそ言い得るはずで、問題はそうなってなお、彼の方法が強度を持てるか否かではないでしょうか?

それと、superflatは曖昧な言葉ですが、「超フラット」なので単に平面的なものとは区別すべきなのではないでしょうか。村上隆としてもダイナミックな感じもこめていたようだし。


5 名前:森(L20615) 2004/04/15 18:46 ID:GHIeIp34
「個性」の捕らえ方が2種類ありますよね。
個性を「偏差」と見るか、「何も無いデフォルトに何か付け足されてきたもの」と見るか。

例えば、若者の茶髪はもはや偏差ではないけどデフォルトではない。
どっちの観点から見るかによって茶髪は個性であったり個性でなかったりするんだと思います。

何も付け足さないデフォルトってものを前提とする後者の理論では、何も無いところに「飾り」を持たせることで作品に個性が生まれます。
その飾りのつけ方に作者の個性が現れます。
無印の「印」ってのはそういう意味での個性でしょう。

無印はデフォルトを機能性においており、機能性を追求した商品を作っているように思われます。
無印良品はその飾りっ気の無いデフォルトを目指すブランドなんで、後者の理論では無個性になりますが、偏差の観点からは無個性ではない。
無印の「無個性」は戦略的につけられた偏差ですね。

では、コールハースのいう無個性と無印のそれとは同じようなものと考えて良いのでしょうか?
どちらも飾りっ気が無いって意味でしょうから、一見同じような感じは受けます。
で、問題となるのが「じゃあ建築におけるデフォルトって何だ?」ということでしょうね。
建築の本質を考えなければならない。
無印と同じように機能性のみを追及したものがデフォルトなのか?
でも「便利性」ってのは工夫して付け足すものだから、デフォルトといえるのかどうかって疑問もあります。
じゃあ飾りが無ければgenericなのか?
作者が見えなければgenericなのか?
コールハースの本は読んでないので彼の考えるデフォルトが何を指していたのかはよくわかりません。


何にせよ米粒さんの仰るとおり、今もまだコールハースのgenericがインパクトを持つかどうかは疑問ですね。
(個人的には、コンクリの打ちっぱなしや全面ガラス張りみたいな建物はもう食傷気味です。)


最後に、書き込みながら個性ってのが形状だけの観点から論じられるのにも問題があるように思いました。
建築というものが本質的に使われることを目的としている以上、建築の個性・無個性は「建築自体のの構造」からだけではなく、「その建築が使う人に対して影響を与えるか与えないか」という点からも考慮されるべきでしょう。

6 名前:水川(40615J) 2004/04/16 23:57 ID:C1ctzP9q
0. 感想の感想。米粒さんの用いる「異」という語は好きです。個性の問題を考えるとき「違」よりも「偉」よりも重要かもしれません。それは個性−無個性の二項 対立を包含する別の「非−(個性−無個性)」の次元が現れる気がします。ただ他と「違う」ことや、他より優れている(偉い)ことから生まれたり生まれな かったりする相対的な「個性−無個性」を離れて、「異」とは偏差の中にあるさまざまな個と個の間に生まれる相互葛藤的エネルギーそのものに着目することで はないでしょうか。特に建築は現実世界の具体的な「場所」に具体的な「歴史」の中で立てられるわけで、必ず前後左右の関係性の中で「(他)個」とぶつかる はず、それに新しい「個」を上手い具合にぶつけること、、、、上手く言い足せませんが、個性−無個性を離れた「異」のエネルギーは全盛期のジャズや七十年 代ゴダールとかにも感じます。

1.感想。無印の話を無印良品と僕の地元に限るなら、無印はまさに印として機能していました。恥ずかしなが らファミリーマートが無印良品を置くようになる前、あの赤茶色のロゴがついたノート欲しさに風の強い街を友達と座席が低いママチャリを一時間こいだ記憶も あります。それにしてもあれほど多用な商品(ノートから調理用具、トイレットペーパーから干し梅まで)同じMUJIに統一していることは企業としての「個 (性)」は相当堅固に思えます。さきの先輩方も個性を関係性、相対性等から捉えておられますが、僕も基本的に同じ考えです。っで個性−無個性という言葉を 用いる時、ついついその「層」を忘れてしまうことがある気がします。MUJIのノートは「ノートという層」から見ればまあ他のノートに比べて特にこれと 言ったこともないなんの変哲も無いものだけれど、全商品を「無印」にすることを一つの「企業(方針)の層」から捉えれば大変な「個性」であると言える気も します。岡山にいたころの僕はMUJIのノートを他のノートと比較して気に入ったから買っていたのではなく(無印良品でなくとも「印の無い」のノートはあ るのだから)、むしろ企業ブランドの層でその巨大な「個性(ロゴやら安心の機能性等)」を買っていたといえる気がします(カラーペンもあぶら取り紙も無印 良品でした)。この個々−集合の対応関係を例えば、生徒−学校に置き換えると、有名進学校やスポーツの強豪校は学校としての個性をよく宣伝されますが、同 じような人間が集まっている分、個々人の差異が生む「内部の」ダイナミズムは、むしろ世間的に学校の「個性」が取り立たされることのない普通科高校のほう が皆が皆勝手なことをしているぶん意外とあるのだ、と転勤を繰り返した先生が言っていたのを聞いたことがあります(東大が芸大と違うところもそれかな)。 僕たちが個性−無個性を結局は相対的にしか語れないと再確認するとき、それでも「個性」という語をあれこれと語ることが有意味であるとしたら、それはひと つには個と個の間の差異や衝突が生み出す何かを評価することもしれないとも思う(0.「異」参照)。
話を戻し、無印の印、無個性の個性とは何かと いうことですが、それが無印であろうとなかろうと個個に偏差がないものが一つに集まると別の、さらに上の層で「個性」が語られることがあるように思いま す。(例えば数年前、村上龍は日本全国の茶髪やルーズソックス現象を支持するのにフランスから来た人がそれらに「日本の」女子高生の反抗精神(一つの個 性)を見たそうなと語ったことを引用している、やや短絡的だけど)特に建築の場合、都市とか環境と言った一つ上の層との密接な兼ね合いの中にあるぶん個々 の建築物の個性−無個性を考えるのが余計難しいのかもしれないと僕は思いました。コールハースの東京の「無個性」性の評価は「無個性な(つまりはお互いに 偏差、差異のない)」建築物が一極にこれでもかとより集まることで逆説的に誕生した、「都市」という一つ上の層の「(無個性という)個性」ではないかと僕 には思えました。これは無印良品の自体に似ているかも。
しかし近年の東京は変わった形態の建築も結構増えている気もする。散歩してて個々の「個 性」的な(あるいは明らかに「ういた」と言ってもいい)建築が再び都市を無個性化(それとも無秩序化かな)する逆ベクトルを感じます。上記のような「個性 として語られるようになる無個性(無差異)」とは逆の「普通科高校的」なミクロなレベルでの個性の無秩序状態の無個性」。しかしなら僕は個と個がぶつかる 不協和音の音楽、ジャズを愛聴する者として沿岸部や表参道や多摩ニュータウンのわけのわからなさは嫌いではありません。表参道は岡本太郎やブルーノートや コルティオーネやら神社やらプラダやらがあるへんはまさにフリージャズです。
でも日本人の海外旅行先の多くがパリやらウィーンやらであるのはそれらの都市に調和の取れた(あるいは理解しやすい)「個性」をもとめるからかな。だったら東京の混沌とした感じは全く逆の自体の気がします。
2. 疑問。いつか新聞を見ていたらリニアモーターカーの開発者がインタビューに答えていて「機能が良くなればデザインは自然と美しくなります」と語っていまし たが、建築にこの言葉をそのまま適用できないところに建築の機能、個性の議論の難しさがあるのではないでしょうか。今現在、建築が勝ち得るべき、あるいは 勝ち得なくてはならないようか重要な「機能」はそうなくはないでしょうか。例えば昔の雪国の家は屋根の傾斜が急だったりなんやらで、勝手に機能=個性が現 れてたりしたでしょうが、電気はあるし冷暖房はあるし「住」のためのアプリケーションがなんやかやある現代はどうでしょうか。リニアに関しては、今現在も 社会の中でさらに勝ち得るべき美徳(あるいは概念)としての「速度」という絶対的な機能がありますが(だからこそ「速度」を「信仰する」人にはリニアのデ ザイン等、全てが個性的で美しいでしょう)、建築に関してはあまり思い浮かばない。それは建築家が「プロジェクトX」に出ることがない(逆にリニアが実用 化されたらその開発者は確実に出るしょう)ことからもいえる気がします。そう、むしろ建築家は「新日曜美術館」に出るのです。ここに建築が「機能」と強調 したりしなかったりするときのある種の「余裕」を感じます。現代では機能は造形を際立たせる「ため」のもの(かつては機能のための造形のはずだったろうけ ど)なのかなと思ったりもしました。

2は素人の疑問ですので、あまり気にしないでもいいです。あまり分量を考えずに書いたので長くなったかも。すいません

7 名前:石丸(40103J) 2004/04/17 17:34 ID:YfC8b87d
 あまり学術的な言葉の使い方、知識が身に付いていないもので、つっこみどころ満載かもしれませんが、課題ですので自分の意見を書き込ませて頂きます。
 まず、「個性」はあらゆるものに付随する何かだと思います。だけど客観的に存在するのではなく、人間の意識の中でつくられるものだから、そのものに備わるものだけではなくて、偏差という観点から意識されることが多いのですよね。
  無個性といった時、これは個性が無いと感じられる「個性」のことだと思います。あらゆるものに「個性」はあるのですから。様々なものの個の性質というもの が考えられて、それに対する一般的な概念が世の中につくられる。その一般的な概念のままのものが無個性と感じられるのではないでしょうか。
 一応、以上です。当たり前のことを言っているようなものかもしれません。甘い論ですみません。もっと本を読んでちゃんと考えなくてはと思いました。失礼します。

8 名前:川本(40606H) 2004/04/17 22:50 ID:mmdlZzm8
  まずは無個性ということについて、私は「無個性なんてものは存在しない。無個性ということが個性になるはずだ。」としか考えられていなかったのですが、み なさんのコメントを読んで、なるほど、と思うことが多々ありました。特に共感したのが「個性」の2種類の捉え方について書き込まれていた森さんの意見で す。確かに、個性を偏差と見ることを前提とするから「無個性=個性」という考えが生まれるんですよね。
 「無印良品」の「印」とは?印が個性のことを意味するのならば、個性のないもの、ということになるのでしょうか。けれど実際には、「無印良品」はシンプルではあっても無個性であるとは思えません。それは、印を無くすことに努めた、という強烈な個性のように感じられます。
  さらに、コールハースが日本の建物の匿名性を賛辞した、ということについて、まったく的外れかもしれないのですが、次のようなことを考えました。日本人が 西洋人を見るとき、人種の区別をつけるのは難しく、ともすれば、皆同じ人種に見えたりすることがありますよね?逆に、西洋人にアジア人の区別がつかない、 ということも聞きます。コールハースが日本の建物を見たときにもそれに似たような影響があったのでは・・・。適当なことを言ってすみません。

9 名前:須田(43016) 2004/04/18 02:01 ID:Qp1/t1Av
みなさんの書き込みを読んでいたら自分がすごく場違いに感じられて、日曜になってしまいました。土曜中という条件を満たせないのですが、一応、自分なりに考えたことを書き込みたいと思います。
個 性というのは「持つのが怖いもの」かなと思います。だから日本人は無個性に惹かれるのかも。他の人と同じ物を持ち、同じ格好をしていれば怖くない。でも、 水川さんが書かれていたように、無個性が集まると、上の層で別の個性が得られる…というのは私も感じます。それが女子高生の格好であったり、無印良品で あったり。無印は「こんな人に使ってほしい!」ということを主張しないから、皆が気楽に手にとれた気がします。と自分で書いて疑問に思ったのですが、ブラ ンドバッグというのは一つ一つには個性があるのでしょうか。無印と違って何かしら主張している気がするのに、結局は大勢が同じ物を持っていて無個性に感じ られます。無印が無個性→個性なら、ブランドバッグは個性→無個性?
あと、最近、個人的に無個性化しているのでは…と感じるのは本郷です。講義で 坂牛先生が「本郷の建物は重箱様式建築」とおっしゃっていましたが(違っていたらすみません)そうではない建物がどんどん建てられていますよね。まだ本郷 に進学したばかりですが、ふとそんなことを考えました。
締め切りを過ぎてしまいましたが、履修はできますか?>坂牛先生

10 名前:坂牛 2004/04/18 06:31 ID:ypxwdKmg
はい、まだokです。15人になるまでは。

11 名前:坂牛 2004/04/19 13:17 ID:ho1vZ1hy
水川君の、ひとつ上の層から見ると無個性も個性になるという話はよく分かります。
僕らはよく、陳腐なものでも同じものが100個集まれば違うものになるなんて言います。デザインしている人の間では、よく言われることかもしれないけれど。
例 えば、こういうことは日常感じます。無印行ってなんか買うとします。あのずらりと並ぶ、黄土色のイメージの中に個々の商品は埋没しており、僕らはなんとな くあの黄土色のイメージを買えるような錯覚を持っています。しかし、一旦購入し、家で使い始め一週間もすると本当の無印となっていきます。その本当の無印 を人は購入しないですね。
確かに僕らはひとつ上の層の個性をあそこで買っているんですね。

12 名前:guinness(30611E) 2004/04/19 18:18 ID:5O0fZG7S
ここまで議論が発展しておいて話を元に戻すのも気が引けるんですが。
僕は部分集合的な考え方を持っています。
例 えばそれぞれの(人やモノや音楽など)の性質を(ここではあえて個性とは言いませんが)ある程度の線で囲まれた円的な図で表すとする。それぞれの性質には もちろん共通点があり重なり合っている。「個性」とはつまりその重なりからはみ出た部分ではないかと。ではその「個性でない」部分、つまり共有部分は「無 個性」かといえば、実はそうでもない。思うに、それは「非個性(こせいにあらず)」であって、「個性が無い」わけではないのだろうかと。では無個性がどこ にあるかというと、その図の外側にある部分じゃないかと思う訳です。そこで無個性的なものはかなり薄い線で、なるべく自分の存在を主張しないがごとく自ら の性質を形どっているので、見えにくい。はずです。それがなぜ見えちゃったかと言うと、主張してしまったからでしょう。ミースが「無個性でいいじゃない か」と言ってその作品を発表し、それに共鳴する流れが出来たから無個性の薄い線が太くなった。ところで無個性を主張すること自体、結構矛盾していますよ ね。無個性が好きなら、それを主張して世の中で堂々たる「個性」に変わったときにどうするんだ、むしろ無個性をそのまま残しておくのがある意味の優しさ じゃないのか、と思うのは卑屈でしょうか。

13 名前:guinness(30611E) 2004/04/19 18:23 ID:8uL8ptZD
ところで、9,須田さんの
>個性というのは「持つのが怖いもの」かなと思います。だから日本人は無個>性に惹かれるのかも。
は、非常に的を得ているなーと思いました。

14 名前:桑(ll36027) 2004/04/20 00:20 ID:vncgHNDb
書き込みが遅くなって申し訳ありません。
BBSを読みながら喚起されたことのmemoとして読んで頂ければ幸いです。

米 粒さん以下、多くの方々が指摘されるように、個性の規定それ自体は決して相対性を免れうるものではないと思います(「個性」乃至「無個性」乃至「両者の境 界」はすべて許容的なものに過ぎないので、無個性の個性への逆転、または、「無個性という個性」という逆説も十分に納得でき現象だと思います)。

ま た、森君の言うように、個性は確かに差異の体系によってのみ維持されうるし、むしろ、個性は差異そのものであるとさえ言えるのだと思います(差異を支える のは相互の差異という<構造>だけなので、差異の内実それ自体はそもそも差異の本質を成さず、そこに差異さえあれば差異の構造は成立しうるのだから、個性 とは何かという問いは、それが個性の中身を単独で問うものであれば、その相対性は言うまでもなく、実質的に無効であると思います)。

ま た、個性を差異の体系の内部における<数の論理>の内に説明することも正しいと思います(差異は数に依存し、常に多数者と寡少者の関係は、地と図の関係を 維持し、時に数の論理によって、地と図は反転しえます。また、数の論理によって、差異がその差異性を失うと、差異の構造それ自体が存続できなくなるので、 差異は差異であるために、常に差異を生み出し続けなければなりません、つまり差異は自己の差異化を不断に続ける必要があるのでしょう)。

ま た、個性が両義的な欲望や、それに伴う不安と結びつくといった主張もよく理解できます(「消費者は差異を消費しながら、同時に他者との同一性をも消費して いる」といった、消費の欲望付き纏う両義性を良く表現する言葉を思い出せばよいと思います。また、「すべては対立として用いられた差異に過ぎず、対立が価 値を生み出す」という言葉は、個性が差異の構造であること、及び、差異化それ自体が価値を生み出すという論理を巧く説明していると思います)。

た だ、これらの説に付け加えることがあるとすれば、これらの説において個性は常にその<表象>において語られている、という点だと思います。個性が差異とし て、差異の構造という表象の内にその実体を持つように語られるからこそ、無個性と個性の逆転が生じたり、数の論理が働いたりという、極めて不可解で、逆説 的なことが起こりうるのでしょう。個性が差異として表象されるからこそ、そこに、差異化という厄介な運動の必要性が生まれるのだと思います。
そも そも個性が、差異化の運動を経て初めて獲得されるものであるとは、私には到底思えません。やはり個性とは個が個に対してもつ関係以外の何物でもなく、他者 との関係の内において初めて確保されるようなものではないと思います。勿論、個性はそもそも秘められたものであるから、それが研かれ、実現化される必要は あります。それがなければ個性は実質何物でもありません。しかし、個性が他者との関係の内に、他者との差異の内に自己規定を始めると、個性は差異の構造と いう表象の内で、ややこしく絡まり始め、自己を見失い、現代人が抱える厄介な問題を次々に産み落とすのだと思います。ここで言う、現代人が抱える厄介な問 題とは、<個性的であれ>という脅迫的とさえ言える要請のことであることは言うまでもありません。
また、個性が、そもそも人間だけに用いられる述 語(?)であることを考えるならば、建築それ自体の純粋な個性というものを論じることも、極めて難しいことになると思います。建築の個性が語られるとき、 それは人間の個性の語りとのアナロジーとしてしか語られ得ず、結局、建築は人間の影を拭い去ることはできないのだということも忘れてはならないのではない でしょうか。むしろ、建築の個性が、建築家の個性とは切り離された次元で語られつつも、語られ得るという現象は、建築それ自体が、正に人間の如く、言うな れば実存の如く考えられ得ることの証左であるとさえ、思い切って言うことすらできるのかもしれません(これはあくまで試論です)。

非生産的な結論(?)として最後に附言すれば、個性が他者との差異において語られるとき、つまりそれが差異の表象として語られるとき、このBBSで展開されたような底無し沼的議論(?)の必然性が見えるのかも知れません。

半年間宜しくお願いします。

15 名前:桑(ll36027) 2004/04/20 00:25 ID:vncgHNDb
一箇所、誤解を生みそうな表現を早速訂正させて下さい。

「やはり個性とは個が個に対してもつ関係以外の何物でもなく」
は、
「やはり個性とは個が自己に対してもつ関係以外の何物でもなく」
に訂正して下さい。
ここでは、個性は他者との関係の内に確保されるのではなく、
個が個として、自己との関係を結ぶこと、といった意味です。

最初の書き込み早々、醜い尻拭いをお許し下さい。

16 名前:米粒(46040) 2004/04/20 16:43 ID:Kkyyvsua [URL]
なんか、クロストーク的に二度目の書き込みで恐縮なのですが、
坂牛先生の
>しかし、一旦購入し、家で使い始め一週間もすると本当の無印となっていきます。
というのが少し気になったので書きます。桑原君が少し言っていますが、建築の個性を人間とのアナロジーとしてみるだけでは見えてこない部分もあるのかもしれません。

というのは建築にせよ、無印にせよ、媒介物的な二重性を持っていると思うからです。そして「個性」というとき、プロダクトの「個性」としてみるのか、モノとしての「個性」としてみるのかでそれは逆説的になる感じがします。
坂牛先生が言うように、プロダクトを購入してそれを使ううち、それは「無印良品」的ではなくなっていき、その意味では個性は摩滅していきます。
で も、実際にはその受用によって、モノは使い手と触れ合いつつ漸次的に変化していく訳で、その意味では逆に、個性化していく過程であるということも出来るの ではないでしょうか。単純に言うと、これは「作者の個性」と「受容者の個性」のせめぎ合いということなのかもしれません。
コールハースが賛美する 東京は、前者のような個性の摩滅によるものでしょうが、それを「無個性」と呼ぶ視点はやはりデザイナー側の視点であり、「つくる」側の視点であると思いま す。その意味では、批判的にではありますがやはり近代的な発想の圏内にいるものなのだといえるかもしれません。
そして、それが「作り手が透明化すること」なのであるなら、東洋的にはむしろ古典的な芸術理念と一致し得るものでしょう。


17 名前:坂牛 2004/04/20 22:52 ID:D/gFTQ3F
いくつか面白い問題が提示されました。
1)個性とは表象で語られる以上に、その実質(存在)で語るべきものではないかということ
2)建築は実存の如く語られうるものではないかということ
3)建築或いはインダストリアルデザインの個性とは作者の個性として現象する一方で受容者の側で生きられたものとして現象してくるものでもありうるということ
このあたり少し明日の最初にでもみんなの意見を聞いてみたいと思います。

18 名前:削除済み投稿者 :削除
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