原型をめざすか、ヴァリエーションを求めるか

デタッチとコミットの注釈に代えて
今、建築をどのようなプロセスで作っていくのが妥当なのだろうか?

坂牛卓 


ダイアローグ
 ある文芸評論家が、日本におけるいわゆるポストモダンは実は19世紀江戸におこっていたと述べていました。すなわち、当時の主流の学問であった朱子学という「理」を重んじる学問に対し、荻生徂徠や伊藤仁斎といった人たちがこの「理」を批判した。面白い例はこの仁斎の塾では、師弟関係を廃したセミナー形式を用い、真理を教えるのではなく、対話を通して物事の意味を浮かび上がらせようとしていたということでした。
 建築思考の枠組みを形成しているさまざまな事柄を、常に懐疑的にクリアしながら前進していきたいと、私は今考えています。そのためには仁斎がやったように、セミナー形式で建築を考えるしかないような気がしています。ダイアローグできるような環境に身を投じる必要があるように感じています。

モノローグ
 ダイアローグする環境というのは、しかし建築の意味体系の部分で重要なことではあっても、建築が意味から形に飛翔する視覚体系の部分では実は障害ではないかと思います。というのはそこでは何が出てくるか分からない。意味を超えたものが飛び出てくる。例えば有名な例で言えば、サヴォア邸にある浴槽の人体形のようなものです。こうしたものはダイアローグで生まれるものではありません。つまりこの部分でダイアローグするのは、そこでほとばしるエロスをそぎ落とすことになってしまうのではないかと感じます。そこでこの部分においては、基本的にダイアローグしない。モノローグで作る。

半透明
 ところでダイアローグというのは、他者を投入するなかで常に外から思考を解体していくという姿勢であり、一方モノローグというのは自己の内面でその精神的なエネルギーを凝縮していくという姿勢です。つまり、前者は考える自分をどこかで疑いどこか信用していない。また後者は最後に自己を煮詰めて形を産み落とすところであり、頼れるものは自分しかいないという部分です。そこでは全面的に自分なのです。かくのごとく、どこかこれからの建築は自分というものが半分透明で半分肉体であるような所から生まれるのではないか、と感じております。自らを半透明にするような。


多少強引ですが、私がデタッチと言っているのはこのダイアローグと、またコミットと言っているのはモノローグと重なるところがあるように思います。言い換えるとデタッチというのは個の内面的な核のようなものから離れていくことであり、コミットというのはその部分を射止めるようなスタンスです。そして今、このコミット(モノローグ)の重要性を再認識したいということなのです。

初出:『篠原一男12の対話 世紀の変わり目の「建築会議」』、建築技術、1999


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