都市と建築 ― 建築に表出する病理の行方

i 坂牛卓「可能性の包容」、篠原一男編『篠原一男経由 東京発東京論』、鹿島出版会 2001、p.214

ii ソジャは次の座談会でこの言葉を使用している Soja, E., Finch, P., Steel, J., Scott, A., Moss E.O., Prix, W., Jameson, C., Jencks, C., Porphyrios, D., Moller, C., Hutchinson, M., Erskin, R., Rhowbotham, K., “ACADEMY INTERNATIONAL FORUM Learning From Los Angeles” , 1993, Royal Academy of Arts, Gallery III、London1994, 、in World Cities Los Angeles, London: Academy Edition, 1994, p. 48.

iiiホルヘ・ルイス・ボルヘス(牛島信明 訳)「アレフ」、1945.『ボルヘスとわたし』、新潮社、1974、p.21

ivエドワード・W.ソジャ(加藤政洋 他 訳)『ポストモダン地理学』、青土社、2003

v エドワード・W.ソジャ(加藤政洋 他 訳)『第三空間―ポストモダンの空間論的転回』、青土社、2005

vi Soja, E., Postmetropolis: Critical Studies of Cities and Regions, Blackwell Pub , 2000

vii op. cit., エドワード・W.ソジャ『第三空間―ポストモダンの空間論的転回』、p.12

1. 序
・都市的でない都市
1984から85年にかけて僕はロサンゼルスに住み、UCLAに通った。卒業後10年以上を経た1998年の暮れ僕は原稿を書くためにロサンゼルスで数日を過ごした。期せずしてこの二つの時期はナンシーによる10年の隔たりがある2つの論考の執筆時期に近い。 その意味で僕とナンシーはとりあえず似たようなものを見ていたということになる。
 1998年とシの滞米後、僕は東京とロサンゼルスの比較論「可能性の包容」を記したi。それはロサンゼルスを東京との比較において都市性が希薄な都市と特徴づけるものであった。 都市性が希薄とは、都市が一般に保持している異質性、現代性、密度感、イメージの骨格、アクティビティ、それら全てがロサンゼルスにおいては東京の過剰に比べて希薄であるということである。そうしたロサンゼルスをUCLA教授エドワード・ソジャの言葉を借りて、僕はCITY-WITHOUT-A-CITYと呼ぶことにしたii。 それは序文でバイイが言うように、「ロサンゼルスを非=都市(ノン=ヴィル)の範例(パラディグム)にするという一般的な傾向」とは異なり、「可能性の包容」という別の、しかし重要な都市的と思われる要素を持つことを指摘するものであった。こうした都市的でない都市というロサンゼルスに対する僕の認識はナンシーのそれと共有する部分を持つと思われる。 ナンシーは第一部冒頭でこう語る「・・・ロサンゼルスでは、都市の観念、イメージが、溶解し、極度に引き伸ばされ、さらには風化するだろうが、消滅はしない」。

・とりとめのない都市
ナンシーは10年後1999年第二部においてこの都市的でない都市ロサンゼルス(=「遠くのロサンゼルス」)に現代都市の典型を重ね合わせ、「遠くの都市」を記した。ここでの彼の記述はとりとめも無く流れ出るラジオ音声のようである。延々と際限なく続く都市。そしてそれは遍く都市及びその周縁と思われるところへと続く。 紙幅の制限が無ければエンドレスであるように思われる。貧困、工事、建物、ダイエット、映画、銀行カード、郊外、コンドーム、ホットドッグ、紙ナプキン、交通、身体、市場、ドーム、邸宅、ケーブルカー、歴史保存、場所、市民特権、仲買人、技術、道、ダクト、伝染、夜、煙突、植物、政治、共存体、カースト、ラブシーン、盗み見、、、このとりとめの無い都市像が何を語り、 そしてその都市像の中で建築には何が可能なのかを探ることがこの論考の主眼である。それはナンシーに示唆された私の読解ではあるが、ナンシーが語ろうとする都市と建築に漸近するものかもしれない。

2. アレフからan-Otherへ
・グーグルアース(Google Earth)とアレフ
ナンシーによる延々と続く都市は出来事であったり、物であったり、抽象的な観念であったりする。確かに現代的な都市の中で僕等はこうしたありとあらゆる不確定で流動的な体験をしている。まさにテレビのチャンネルを変えるように、あるいはネットサーフィンのごとく、瞬時にそして同時に様々なことを体験していることを実感する。 そんなとりとめの無い都市体験を成り立たせている要素は沢山あるのだが、その中でも速度に負うところは大きい。シークエンシャルな視覚的体験は機械的交通手段によって大きく変更されている。多くの線的な都市体験は点的なものに変わりつつある。更に早い高速交通手段(リニアモーターカーや飛行機)はメガロポリスを飛び越え地球規模での点的な都市の連鎖体験をも生み出している。 つまり空間をワープしながら地理的距離を捨象するような体験である。そしてネット上では事実そうしたことが既に起こっている。グーグル(Google)がはじめたグーグルアース(Google Earth)というサービスである。ご存知の方も多いと思うがこれは2005年から始まったネット上で地球儀を拡大・縮小できるサービスである。その画面を開くと宇宙に浮遊する地球が現れる。 アメリカ上空数万キロから地球儀を見るような画面である。そしてそこには地球に接近するボタン、遠ざかるボタン、地球を右回転・左回転させるボタンがある。これらを巧みに操れば、およそ5秒くらいで自らが見たい地球のどの場所にも行けるのである。今のところデータの精度は場所によって異なるがマンハッタンあたりは全ての摩天楼が3次元データで入っている。道路に立って街を眺めることもできる。 我が家のあたり(東京四谷)は自分のマンションがしっかり確認できる。この画面からは地図を見るのと同様な感覚を得るが地図と異なるのは移動速度と解像度を瞬時に変えられる点である。
 さてグーグルアースとまるで同じようなものをアルゼンチンの作家ボルヘスは60年まえに想像逞しく小説の中に登場させていた。それは「アレフ」と呼ばれるものであった。
アレフの直径はおそらく二、三センチメートルにすぎなかったが、そこに全宇宙が、縮小されることもなく、そっくりそのまま包含されていた。個々の事物(たとえば鏡の表面)はそれ自体無限であった、というのは、わたしはそれを宇宙のあらゆる地点からはっきり見ていたからである。わたしは芋を洗うような海水浴場を見た。曙光と夕日を見た。合衆国の群集を見た。黒いピラミッドの中央で白金色に輝く蜘蛛の巣を見た 。
そして都市の体験がグーグルアースという現代のネット上のサービスに象徴され、それを予期したかのように、その昔書かれた想像上のアレフという物体は地理学者を啓発した。

  ・アレフとソジャ
 アレフに啓発されたエドワード・ソジャは有名な一連のポストモダン地理学の論考を展開した。氏の論考は『ポストモダン地理学』(1989)iv 『第三空間』(1996)v 『ポストメトロポリス』(2000)viの三部作といわれている。この最初の著書の「はしがきとあとがき」(この題名で著書の冒頭に付されている)の冒頭に「アレフ」は引用されている。 そこでは、「ボルヘスによってアレフでの空間的体験を文字という時間的な流れの中に記述することの難しさが語られる。 そしてそれに同調するソジャは、困難ではあるもののそうした空間性こそが歴史性に代わるポストモダン地理学の持つべき新機軸であることを語る。つまり都市体験とは終わり無き連なりが同時的に受容されるものであり、時間的経過の中に歴史的に並べられるものではないということである。そうした空間性を重視した地理学が「空間論的転回」と呼ばれるにいたるわけである。
 さてソジャのこうした空間性=とりとめのない終わりなき連なりは言うまでも無くナンシーの都市体験の把握に重なっていると思われるのだが、こうしたソジャの思考は次作『第三空間』では次のように展開する。
私は読者の皆さんに、これらの議論について偏見を持つことなく本書を読み進めていただきたい。少なくともしばらくの間、「どちらか」という選択を迫ることはやめにし、「どちらもboth/and」という論理の可能性を考慮してほしいのである。・・・〔中略〕・・・それは、あらゆる二項対立、思考と政治活動をわずか二つの選択肢に限定するすべての試みに対して、もうひとつの=他なるan-Other選択の組み合わせを差し挟むことで応答しようとするものであるvii
つまり「終わりなき連なり」を文章化する時の困難さの解消はとりあえず、二項対立の選択的思考を排除して三項目を吸収するという新たな思考の枠組みを備えることに向けられた。そこでこの「もうひとつの=他なる an-Other」を導きの糸としながらこれ以降の論を展開してみたい。


 

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