坂本一成の素材感

 

素材をめぐるベクトル
素材は建築そのものである。建築は素材でできているのであり、それ以外の何ものでもない。では建築とは素材でしかないのかと言えばそんなことはない。アリストテレスの四因論に依拠すれば、素材とは可能態としての質料であり、その質料はある概念のもとに現実態として形相化する。それゆえ建築は単に素材の塊ではあり得ず、それが概念を伴い構築された結果としての形を伴っている。レンガや石は建築を作る人間のコンセプト(概念)にしたがって数ある可能性の中から一つの形を受け取って建築となるのであった。この構築のプロセスをアリストテレス用語に即しベクトルで示せば可能態→現実態となるだろう。
目を近代に向けてみよう。そこでは建築はその目的に従って大きさや機能配列が合理的に決定され、素材はそれに応じて選択された。素材の選択肢とその可能性が飛躍的に高まった近代ではそれ以前とは異なり、決定された現実態としての形が提示され、それに適した可能態が選ばれ、あるいは開発された。もちろん素材の可能性が既知であり得たから形を描けたのではあるが、近代とはこの既知の領域を拡張する方向で動いたと言えるであろう。すなわち一枚の挑戦的ドローイングやモデル(形)が素材の可能性を広げたということである。その意味で近代建築とは以前の可能態→現実態というベクトルが転倒し、現実態→可能態という流れで作られるケースが多く現れてきたと言えるだろう。
しかし近代のこの可能性の拡張は除々に勢いを失った。開発された素材はルーチン的に繰り返し使われ始める。つまり現実態による可能態の選択は経済合理性に即して慣習化し、作る人間の怠惰が露呈したのである。言い換えれば→を支配する論理の中で可能性の探求は後景化し、慣習化した制度が前景化したのである。

素材の質料性
一方この素材(質料)と形(形相)という概念は可能態、現実態というとらえ方とは別に、美術史において常にプロブレマティックであった。いささか乱暴に言えば、絵画において「色」や「テクスチャー」が重要なのか「形」や「輪郭線」が重要なのかと言った議論はこの問題系に属する。例えばルネサンス絵画では色を重視するヴェネチア派に対して線を重視するフィレンツェ派があった。その後も絵画史を跡付ければ様式や作者によってそれらの重要度が異なってきたことが分かる。そして近代にはいり、それに決着をつけたのはイマヌエル・カントである。彼は『判断力批判』において、色は線ほど美に貢献しないと明言した。つまり形相(形)は質料(色)よりも美的に重要な要素だと認定されたのである。
こうした美学的な価値体系は近代の建築革命のなかに紛れ込む。産業革命は社会の物理的構成をドラスティックに変化させ、巨大工場、駅、空港、摩天楼など今まで見たこともないような建築を生み出した。これらは鉄とコンクリートによる構造革命によって可能となり、それらの視覚的インパクトが見るものに衝撃を与えた。そして言うまでもなくそこにおいて強く現象したのは、コンクリートや鉄のテクスチャーや色(質料性)ではなく形だったのである。期せずしてカントの言葉がここに重なって見えてくる。しかし果たして質料性は美に貢献しないのか?昨今、本文中でも取り上げるような質料性へのこだわりを見せる建築がスイスを中心に登場してきたことはこうしたモダニズム期の「形」への傾斜に対する意識的、無意識的反省となっていると思われる。

不連続な理路
さて前置きが長くなったが、坂本一成の素材観とはこうした歴史的背景の中でどこに位置付けられるのであろうか?坂本は対談のなかでこう語っている。「『この材料を使ったらどんなものができるか』ということを考えることはあまりなかったと思います。まず空間構成のイメージがあって、その空間を作るために一番適切な材料を選ぶというスタンスをとるわけです」。この発言を単純に上の定式にあてはめるならば、先ず空間構成=形=現実態があり次にそれに適した素材=質料=可能態を探すという近代における「現実態→可能態」というベクトルに則っているように見える。しかし坂本の眼目はそこにはない。続けて坂本はこう述べている。「一番自分のイメージと合う材料に、材料の物的な性能以上の『社会』が与えてきた様々な意味・イメージが問題になるわけです。・・・・その社会的意味が空間を仕切るわけで、それをコントロールする必要があるし、ある時にはそれを排除することが必要なわけです」。この言葉は、先に述べた慣習化した「現実態→可能態」の「→」にこびりついた制度的なものへの批判となっている。つまり形と素材の組み合わせは慣習化の中である一定の意味を担うのだが、坂本はこの社会から押しつけられた意味をそのまま受け取ることをよしとしないのである。つまり彼の素材観とは現実態が可能態に先行するものの、慣習的な可能態の選択(制度)を排除したところから独自に発想される。それは時として、制度を支える技術や美学にも背くことになる。そしてその結果として素材の予期せぬ側面が質料性を伴い強く前景化する場合がある。しかしそれは昨今の近代(形偏重)批判としての質料性の復権とはいささか趣を異にする。
坂本は別の本の後書きに制度とその相対化の重要性を記している。そこで坂本は建築創作において重視する、消費、記号、構成、スケール、身体、記憶などの概念を通して制度についてふれているものの素材へは言及していない。しかし、おそらく坂本にとって素材はこれらの概念と同様に制度を相対化するものなのである。そのスタンスは古典的な可能態→現実態に基づくものではないし、近代初期の現実態→可能態に即したものでもない。ましてや慣習化した現実態→可能態に因るものでもない。それは現実態と可能態が独立に並存する不連続な理路のうちに物の体系を構築しようとする態度なのである。


坂本一成中国における展覧会カタログ所収2011