フレーム・厚み・周辺

fig.1



厚みがフレームを壊す
話を内部に戻そう。この建物には外部を切りとる出窓フレームだけではなく内部から内部に開いた内部フレームもある。これら全体に共通して言えることはそれらフレームの「だき」が比較的大きいこと。そしてその「だき」が壁と同素材(コンクリート)同色だということである。外部に対するフレームはほとんど出窓なので「だき」は構造体200〜300、に出窓分100〜200を加えて300〜500ある。これは確かに結構大きい。また外断熱をしているので内部間仕切り壁はほとんどがコンクリート構造体である。よってその厚みは200〜300+増し打ち20、20の計240〜340である。やはりこれも乾式壁に比べればちょっと厚い。
さてフレームの「だき」が大きく、あるいは「だき」がそのまま壁となっていて、それが壁と同素材同色だとすると何がおこるか?フレームを通してフレーム内の対象を見ているつもりが、フレームの「だき」に現れているところの壁というフレームの周辺を意識することになる。
フレームの外の風景を美しく切り取るためのピクチャーウィンドウは壁に穿った穴の周りにそれこそ額縁を回して「さあこの中の美しい風景を見よ」と言わんばかりである。それに比べると、額縁が無く、壁の断面としての「だき」が大きいフレームはフレーム内の対象を見ながら周囲に気が散るフレームである。
視覚芸術学者のノーマン・ブライソンは、人は見ているもの(フレームの内)と、見ていないはずのもの(フレームの外)をトータルに表象する可能性を持っていると言う。そしてその表象を可能足らしめるものについてこう言う「フレームによって排除される不可視なものを表すことができるのは、フレームそれ自体を崩すような技法のみである」(「拡張された場における<眼差し>」ハル・フォスター編『視覚論』平凡社2007所収」。近代的視覚はカメラの普及によって主体と対象の堅固な対応関係の上に成立したが、人間の表象とはカメラ的ではない。図である対象を見る視覚と地である床壁天井への意識が相互浸透的なはずである。ここではそれを建築化しようとしている。

フレームとその周辺が作る関係
ではこのフレームの地としての周辺について述べてみたい。外部フレームは各個室の外壁側についているのだが最も大きなそれは一階の広間に設けられている。建物前面の公園を一望するこのフレーム出窓の「だき」と「周辺」の壁天井はすべてコンクリート打ち放しの上にこげ茶系黒色のEPをスポンジで叩いた仕上げである。ここは天井が高いキュービックな空間である。
これに対して内部フレーム(内部から内部いに開くフレーム)はこの黒い広間上部の吹き抜け周りの4つの個室とそのロフトに設けられている。このコンクリート壁に穿たれたフレームは個室のアクティビティを滲み出す。このフレームの「だき」と「周辺」の壁はコンクリート打ち放し壁に白あるいはグレーのEPをスポンジで叩いた仕上げとしている。広間、吹き抜け双方において、このフレームの「だき」と「周辺」は同素材、同色である。この吹き抜けは断面形状が建物全体の短手断面と相似的なので家の中央に縮小したヴォイドの家が現れたように見える。現代住宅において可変的な個室に対して変わらないものとしてこの吹き抜けを位置づけるためにこれを筆者は「内の家(House House)」と呼ぶことにした。
家族のリテラルな関係性が意識的に作られる黒い広間と家族のフェノメナルな関係性が無意識的につながる「内の家」の連結がこの家の核となっている。加えてその両側にフレームを介した外部や個室が繋ることでこの家の中心的な構造ができあがっている。

住宅特集 2013年5月号 所収