建築と言葉は切っても切れない

坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』岩波文庫、2008年(初出:『新潮』第43巻第4号、1946年)

坂口安吾論を書くにあたり彼の本を片っ端から読んではみたが、何が自分に残っているのかよくわからない。とりあえず『堕落論』が最も坂口らしいテキストだった気がする。

 

 

マルクス、エンゲルス『共産党宣言』大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波文庫、1951年

マルクスで最初に読んだのは『共産党宣言』である。父親のすすめだったのか、薄くて読みやすそうだったからなのかその理由は覚えていない。冒頭の一句「ヨーロッパにはお化けが出ます」は印象的だった。

 

 

篠原一男『住宅論』鹿島出版会、1970年

篠原一男の住宅論は建築家の書いた建築論としては最も長く読まれている本ではないだろうか? その理由はこの文章が論理的である以上に人間の本能的欲求を見事に活写しているからだと思われる。

 

 

『a+u』1984年2月号

5回の連載「建築家を読む」では近代建築のパイオニアであるル・コルビュジエの反近代的側面を書こうと頑張った。そのために世界中のル・コルビュジエ論を集めて読みまくった。

 

 

 


林昌二『建築に失敗する方法』彰国社、1980年

入社して数年後、林さんからじかにこの本をいただいた。林さんの文章にはどこか毒があった。やさしい言葉で社会を批判的に語る語り口に魅了された。

 

 

 

阿川佐和子『聞く力』文春新書、2012年

インタビュー術をつづったハウツー本は数多くあるが、その中でもこの書はとても参考になる。阿川さんの本音が素朴に語られているからだと思う。

 

 


エイドリアン・フォーティー『言葉と建築』坂牛卓・辺見浩久監訳、鹿島出版会、2005年

著者エイドリアン・フォーティーと日本でお会いしたとき、「よくこの本を日本語にできましたね」と驚かれた。美術史、建築史、社会学、言語学などを専門とする方々と共同で作業できたことでこの本の翻訳は可能となった。

 

 

坂牛卓『建築の規則』ナカニシヤ出版、2008年

この本は僕の博士論文の要約版である。建築とは質料、形式、関係から派生する9つの原理を必然的に思考するということをつづったものである。

T 教師をしていて思うこと
1)卒論がわからない
 日建設計をやめた18年前、僕はいくつかの大学で教え始め、2005年から信州大学の助教授となり研究室をもって卒業論文の指導をするようになった。卒業論文は4年生になって1年かけて行う研究である。一般に前期は資料を集め、後期にそれを分析して文章、表、写真などを駆使して1つの研究としてまとめる。学生たちは10月くらいまでには研究の大枠を決め、本文を書き始める。それと並行して(要約)もまとめる。論文はA4、50枚くらいの分量で、梗概はA4、2枚である。本文を先に書くか、梗概を先に書くか決まりはないが、僕は本文の設計図ともなるので梗概を先に書かせている。そして大学に提出する締め切りの1カ月くらい前に最初の梗概を発表してもらうのだが、これが毎年頭痛の種である。彼らの書いている文章が理解できない。A4、2枚の文章が日本語になっていないのである。

2)卒業設計がわからない
 信州大学では卒業するためには卒業論文を書くか卒業設計を行わなければならない。どちらをとるかは本人の自由である。僕の研究室では7割くらいの学生は設計を選択していたと思う。設計をする人はまずその設計の考え方(コンセプト)を練らなければならない。このコンセプトを練るという作業はなかなか時間がかかるものである。4月から始めて冬までその作業をしている学生も多い。建築は実際に形を作ることにも増して、その前段階の作るものを言葉で考えるところにも時間がかかるのである。そしてやっとできたコンセプトの説明を受けてもよくわからないことが多々あってとする。
3)エントリーシートがわからない
 研究室の学生はほぼ全員大学院に進み、そして1年の終わりころには就職活動を始める。現在のシステムでは、学生はまず各企業のホームページにアクセスして就職の意志があることを提示し、エントリーシートという志望動機書を書く。時折そういうシートの書き方を相談される。さすがにこれは卒論ほど話が複雑ではないので言いたいことはおおむねわかるのだが、文章があまりにで目をいたくなる。僕が審査員ならまず隅っこの方に寄せておくだろうと思わせるようなものばかりである。この文章1つで一生を棒に振るのではと心配になるものが多いのである。
 こうして大学で教え始めて数年、学生の書いたもの、話すことを理解できずかなりした。そして日本の建築教育において様々な意味で言葉がないがしろにされていると思うに至った。文化勲章を受章した建築家村野藤吾は新入社員に「国語ができること、掃除ができること」を求めたそうだが同感である。

U 高校時代
1)現国はつまらない
 少し高校時代を振り返ってみよう。僕は現代国語を真面目に勉強していたのだろうか? 否である。どうも中学校の時からこの科目にはしていた。一番参ったのは試験によく出てくる登場人物の心理分析問題である。その時その人がどういう気持ちだったのかという問いである。もちろん常識的な読みからするとこうあるべきという解答があるだろうことは理解できる。しかしそう書かないと間違いとされる採点基準がおもしろくなかった。僕はこの現代国語の不自由さに腹が立ち、教科書を読む気にはなれず勝手に自分の好みの本を多読していた。
2)評論って何?
 そのころたまさか1人だけ僕の納得のいく国語の先生がいた。この先生は試験をせずレポートを提出させた。今でも覚えているのは「坂口安吾論」を書けというもの。○○論とはいったい何か? 上述したようなありきたりの現代国語の問いに慣れきった頭には○○論は難解だった。天才的な文学少年は400字詰め原稿用紙に数百枚以上書いて次の年からレポート枚数の上限を作らせた。僕は評論とは何かを知りたく、今まで勉強のことで相談などしたことのなかった父親に評論とは何かを問うた。その時父親はかなり丁寧に説明をしてくれたのだが、何を言われたかは覚えていない。一方で父親の書斎にある本には注意が向いた。そしてこういう本の中に答えがあるのではと勝手に思い込み、そこに並んでいる、マルクス、ヘーゲルなどの哲学の本を読み始めるようになった。これがきっかけとなって僕は学問の基本を少しずつ理解するようになった。「坂口安吾論」を書かせた教師には頭が下がる。
3)藝大に行きたい
 さて高校2年生のころ進路を決めるにあたり、僕は小さいころから続けていた音楽をやるか、それとも陶芸をやるかと考えた。いずれにしても藝大に進みたいと思っていたのだが、大学を出たら即座に自立せよという厳格な父親は、音楽も陶芸も食えないからという理由で、それらを将来のとすることを許さなかった。そこでしかたなく、陶芸の代わりに、使えるアートとして建築を学ぼうと思い立った。担任の先生に相談したところ、先輩に相談に行くことをすすめられた。行った先は象設計集団という建築の設計をするチームの代表格である富田玲子さんのところだった。富田さんたちのアドバイスは建築家のいる大学に行きなさいということであった。そしてその時あがった1人の建築家が篠原一男であった。彼らは篠原一男をあげたものの「変わった人だよ」と付け足した(ような気がする)。というわけでなんだかおもしろそうだと思い、篠原一男のいる東京工業大学に進むこととした。

V 大学時代
1)大学の教育
 大学に入って3年生になり、建築学科のメインの授業である設計製図の指導を篠原先生から受けることとなった。先生は外部から一流の建築家を招き共同指導をされた。その先生方は今思えば大変なメンバーだった。我々の代では伊東豊雄、香山壽夫、倉俣史郎、磯崎新、大高正人の5人がいらっしゃった。
篠原一男という建築家は自らの設計において言葉を大変重要視する人であった。『住宅論』などの著書の中で過激なアフォリズムを発信し、当時の多くの学生をしていた。よって先生の批評は作品の造形に対してだけでなく、作品を説明する学生の言葉に向けられることが多々あった。それは篠原先生だけでなく、上記5人の建築家、インテリアデザイナーも同様であった。彼らはそれぞれ建築界の論客であり、コンセプトの意味や論理性などについて厳しく評価を下していた。 篠原一男は言葉に対してエキセントリックなほどに敏感な建築家である。一方、当時の建築家たちは多くを語らず、技を盗めと言わんばかりの方も多かったと思う。その意味では言葉は必要不可欠なものではなかったかもしれない。しかし現代の大学の建築学科では篠原先生とは少々違う意味ではあるが、作品を説明する能力は不可欠である。僕が信大時代に感じたように何を言っているのかわからないような言語能力では大学はもとより、社会に出てからも建築家として使い物にならない人となってしまうのは明らかである。
2)真っ赤になった卒業論文
 大学4年の時、僕は篠原研究室に入るのをやめ、西洋建築史を学ぶためにデイビッド・スチュワート先生に指導を仰ぐことにした。スチュワート先生は東工大で英語および西洋建築史を教えられていた。先生は日本語をほとんど話されないので僕らはひたすら英語の勉強をすることになった。週7日、大学か英語学校でとにかく英語を詰め込んだ。そうしてやっと身に付けた英語の力を駆使して書き上げた論文は約3回スチュワート先生に真っ赤にされた。愕然としながらもなんとか3回書き直した。この時に英語の文章とはこう書くのかというおぼろげなイメージがつかめた気がした。
スチュワート先生のもとでは僕を含めた3人がル・コルビュジエの論文を英語で書いた。それを知った日本の建築雑誌『a+u』がコルビュジエに関する連載の機会を与えてくれた。そこで3人は隔月で5回ほど連載を行った。見開き2ページの原稿にひーひー言い、スチュワート研で助手をしてくださっていた元東工大教授の篠野志郎先生に文章を見てもらった。もちろんここでも草稿は真っ赤になった。大岡山の当時の篠野先生のご自宅で明け方まで文章指導をしていただいた。かくのごとく僕の日本での建築修業は実に言葉の修業だったと言っても過言ではなかったのである。
3)アメリカの大学教育
 大学院の2年生になって僕は大学を休学してカリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学することにした。スチュワート先生のところで論文を書き、ゼミで鍛えられたおかげで文部省(当時)の給費留学生試験に合格した。アメリカの大学は9月から始まるのだが、2月からUCLA語学学校に通った。そこで得たかけがえのない教えは作文の技術だった。日本の初等中等教育でも作文は書かせるが、おおむね自由作文である。文章術の定型を教えることなどない。一方アメリカでは基本形を徹底して教えるのであった。パラグラフとはいくつのセンテンスで作るべきであり、パラグラフの最初のセンテンスはトピックセンテンスと言って、そのパラグラフで述べることが一言に要約されていなければならず、パラグラフいくつで文章全体を作るなどの厳格なルールを教えられた。そしてそのとおり書く練習を繰り返しやらされた。その文章の作り方は留学中を通してレポートを書くときの基礎となったし、帰国後の日本語を書くときのルールにもなった。
 アメリカにおいて学んだもう1つのとても重要なことは書いたり話したりするうえでの論理性である。このことは僕が言うまでもなく多くの人が語るところでもあるが、僕が感じたことはとても単純なことである。イエスなのかノーなのか、主語が誰なのかを明確に表明するということである。いまだに日本において学生と話していてに思う。で、あなたは賛成なの? 反対なの? それはあなたの意見なの? 誰の意見なの? というようなことである。

W 社会人となって
1)書く力
 大学を出て就職をした先は日建設計という大きな設計事務所だった。我々はもちろんスケッチののようなことをやらされていたが、それは練習のようなものでまだ戦力として期待されていたわけではなかった。その意味で最初に責任をもってやらされたのは打ち合わせ記録を書くことだった。との打ち合わせ内容を議事録にまとめる作業である。これが学生時代同様、結構赤を入れられて返された。次にやらされたのは当時の副社長林昌二さんの命で礼状を書くことだった。どこかに見学に行ったらその相手に礼状を書くというものである。これは難しかった。単に正確であればいいというものではない。少々気の利いたご挨拶の言葉も必要だし、その時々の季節感も求められた。今は亡き林昌二さんは建築の達人であると同時に文章の達人でもあり、礼状はやはり真っ赤になった。林さんには建築はもちろん、上述のとおり書くことを教わり、そしてプレゼンテーションのやり方を教わった。林さんが最も注意を払ったのは話す順番だった。それは論理性にかかわることである。論理的ではないプレゼンには容赦のない叱りの言葉が飛んでいた。
2)聞く力
 大学で教える建築と社会に出てから行う建築の一番大きな違いはクライアントと施工者の有無である。よく言われる話だが、いい建築ができる確率は1000分の1で、その理由はいいクライアントがいる確率が10分の1、いい建築家がいる確率が10分の1、そしていい施工者がいる確率も10分の1だからである。建築は建築家1人で作るものではないのである。
 では、いいクライアントがいて、いい施工者がいて、仮にあなたがいい建築家だとして、即座にいい建築ができるかというとそうでもない。あなたがいくらいい建築家だとしても、あなたがクライアントから的確な要望を聞き出して、そして設計したものを的確に施工者に伝える能力がなければ、いい建築にはならないからである。つまり、いい建築を作るには人から話を聞く力が必要であり、人に話を伝える力が必要なのである。建築の能力があるのに建築家になりきれない人の多くは聞く力と伝える力が欠けているからだと思われる。阿川佐和子のベストセラーに『聞く力』という本があるけれど、この本がこれほど売れているのは世の中においていかに「聞く力」が重要かということの証しなのである。

X 独立時代
1)文学部で建築を教える
 日建で13年勤めたあと僕は独立した。それと同時にいくつかの大学から非常勤講師の依頼を受けた。その1つとして東京大学の文学部で建築を教えるというおもしろい体験をした。それは文学部美学科が主催する授業だった。高校のころから哲学を独学で少々かじっていたのと美学の教授が高校の先輩だったことが重なりこういうチャンスに恵まれた。そして、そこで教えながら質問やらレポートに書かれている内容を精査する中で自分はますます文学部建築学科みたいな人間へとした。つまり以前にもまして建築における言葉の重要性を認識するに至ったのである。
2)言葉と建築を翻訳する
 東大で僕の授業を聞いていた数名とその後勉強会を開くようになった。ある時翻訳でもやろうかとみんなで決意して本を選び、鹿島出版会に出版のお願いをし、快諾していただいた。選んだ本はロンドン大学バートレット校で美術史を教えるエイドリアン・フォーティーの『言葉と建築(Words and Buildings)』という本であった。この本は第1部と第2部から構成されており、第1部では建築を創作していくときに使われている言葉はいったいどこからやってきたのか? 科学、言語学、医学、社会学など、その出自をひもといている。第2部ではより具体的に近代建築を作りあるいは語るうえで頻繁に登場する単語、「空間」「機能」「構造」「形」など全部で18の言葉をとりあげ、それらがいつから建築の分野で使われ始めたのか、どの分野から借りてきた言葉なのかを明らかにしている。つまり、これらの言葉は近代より前には建築においては使われていなかったのである。たとえば僕らが今普通に使う「機能」という言葉は近代より前には使われず、それは建築に不要で、そういう概念がなくても建築は作れたのである。それはさらに言い換えれば、近代より前においては「機能」の重要性は低かったということである。
 現在僕らはここに登場する18の言葉に価値を置き、そうした概念に縛られて建築を作らざるを得ない状況に置かれている。しかし時代が時代なら、そうした概念は建築を規定する力をもっていなかった。そう考えると、常に新たな未来に向かってものを創る建築家は自らを縛る概念の妥当性を疑ってかかる必要がある。それらは時代とともに変化するのだから。そして、そうした概念の中に現代においてはもはや不要と思われるものがあれば丁寧に取り除くことで新しい建築が可能となるのである。その意味で言葉、概念に敏感であることは建築家としては必須のことなのだと、この本を翻訳しながら痛感したのである。
3)日本の建築教育を思う
 これは最近の話であるが、知人の紹介で僕のところにコーネル大学で建築を学んだ若い日系アメリカ人建築家がやって来た。拙著『建築の規則』の英訳の可能性を尋ねに来られたのである。彼は丹下健三、磯崎新、メタボリズム以降、日本からのまとまった建築言説が世界にほとんど発信されていないことを嘆いていた。その理由は、まずは発信するモノがないということと、仮に発信されていても読むあるいは聞くにえるものがないからだという。 たとえば、とある著名な若手の建築家が海外でインタビューを受けそれが発信されたのだが、あまりに非論理的で聞いている方があきれたという。あるいは海外の建築ホームページに多くの若い建築家の写真や文章が掲載されているのだが、文章の(英語の良し悪しはおいておいて)内容が稚拙なので作品全体の質が問われるというのである。
 建築は造形であると同時に言葉なのだと僕は再度思わざるを得なかった。建築は1つの強い論理であるはずなのだが、日本では相変わらず以心伝心でふわふわとしたあやふやな言葉のれを通してしか説明しない。論理があやふやなことと、あやふやなことを論理的に言うことは異なる。そうした理解不足の責任の半分は学生にあるのだが、もう半分は教育にもある。入学するのに国語も歴史も学ばなくてもいい建築学科はたくさんある。加えて、中高の国語教育では最も論理性を必要とする作文をきちんと教えない。 エンジニアになる人は数式という言葉よりはるかに論理的なツールをもっているので現行の教育でもいいだろう。しかるに、そうしたツールを使わないで建築を作り説明しなければならないデザインや歴史を学ぶ人間が国語も英語も歴史も使えない(加えてそっち系の学生は数理系にひどく弱い。つまり言語的にも数理的にもひどく非論理的)とするならば、戦場に裸で行くようなものである。 グローバル化する世界の中で感覚的な素振りだけで生きる人間となることに意味はない。そもそもそういうまれな才能をもっている人はほとんどいない。世界とするうえで必要なことは創作力に加え、言葉の発信力である。

 さて長々と書いてきたが、僕の建築人生を振り返ると、言葉教育を大学時代にたっぷり受け、そして働き始めて仕事上言葉を書く、話す、聞くがとても重要だと知ることになった。さらに『言葉と建築』という本を訳しながら、建築の創造においても言葉はとても重要な役割を担っていることを痛感し、グローバル時代にますます建築を語る言葉の必要性を実感しているのである。そうした時代に、冒頭記したとおり、今どきの学生は言葉に弱い。理工系大学の建築学科に入るために理系の勉強をしてはくるが、人文系の学力が低い。でもそうした知識の偏りはのちに自分を苦しめる原因になることを知っておいた方がいい。そして大学で学ぶ学問を決めるときに、建築の設計をしていきたいと思うのなら国語や社会が好き、あるいは本を読み、文章を書くのが苦にならないかどうか自問自答してみた方がいいのかもしれない。またすでに大学に入学して建築を学んでいる人であれば今からでも遅くはない。本を読んでほしい。論理的な言語の思考能力を身に付けてほしい。建築と言葉は切っても切れない関係にあるのだから。

14歳からのケンチク学 五十嵐太郎 編 336頁 定価(本体 1,850円+税)
国語「建築と言葉は切っても切れない」 坂牛 卓