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坂本一成 選考結果と感想

リップサービスではなく、全てのレポートにそれぞれ面白い部分があり、質の高さを感じた。特に論理もさることながら、感性を感じさせてくれる文章であったことが嬉しい。その中でも次の4つについては特に文章の全体を通じて楽しく読めるものだった。

  • 若宮君「House SAの詩学」
  • 桑原君「実存としての建築の『開け』の構造」
  • 森君「House SAにおける『排他的開放』」
  • 水川君「人間と『共―生』する『ほぼ生き物』建築としてのHouse SA」

その中で敢えてひとつを選べということであれば若宮君の「House SAの詩学」を選びたい。この文章は詩趣というキーワードを用いそのダブルミーニング:異化作用とブリコラージュという二つの特質をHouse SAの中に見出している。この概念のあてがい方は手馴れた鮮やかさがある。しかしこれらの言葉はやや使い古された感があり、これらが自分なりの言葉に置き換えられえていれば更に想像力を書き立てるものとなったかもしれない。さてこの二つの概念の並走を最終的にはハイデガーに棹差しつつ、世界性という結論へ導く部分はやや引用に頼りすぎている感がある。世界との対峙あるいは世界への広がりが詩趣からどのように連続していくのかがもう少し鮮明になっていればと惜しまれる。しかし全体的に、この建築の意図が的確に読み取られた上でそれらが鮮やかに言葉にされているという意味で、若宮君の文章に敬意を表したい。

(文責:坂牛)


House SAの詩学

若宮和男

エウパリノス:
「君はこの町を散歩するとき、町にむらがる建物の中で、あるものは黙し、あるものは語り、またあるものは、これが一番稀なのだが、歌うということに気付きはしなかったか?」■1

House SAという建築を語るために、私は「詩趣 poetry」なるモノサシを導入しようと思う■2。ここでいう「詩趣」とは無論類比【アナロジー】であるが、それは一つにはフォルマリズム的な異化の作用を指して、そしていま一つにはレヴィ=ストロースが「野生の」と呼んだような世界との根源的な関わり方を指してそう呼ぶのである。私はHouse SAにおいて、一見異なる方向性を持ったこれら二つの志向が、「詩」という現象態のうちに合流しているのを認める。

1. 異化としての「詩趣」

ロシア・フォルマリズムは「詩的」言語と「日常的」言語を区別する際、「異化 ostranenie」(シクロフスキー)なる用語を用いた。意味内容【シニフィエ】の伝達を主たる目的とし透明化した「日常的な」言語に対して、「詩的」言語はそのような透明化に抗い、意味作用を「遅延させ」、言語それ自体を「前景化」(ムカジョフスキー)させる。

日常の会話において言語の存在を意識せずにいるように、ありふれた建築の中で我々は建築を意識しない。あたかも意味内容【シニフィエ】だけを読み取るように、建築は透明化し、我々の意識は専ら機能だけに向けられている。(例えば毎日そこにいる教室の梁や窓を我々は鮮やかに思い出せるだろうか?)一方、House SAに於いては建築は「前景化」し、我々の意識は建築に差し向けられる。私がHouse SAを〈詩的建築〉と呼ぶとすればこの意味においてである。

ところで詩の前景化作用を担うのは、韻律や反復そして隠喩といった詩独自の形式■3である。我々は例えば、House SAのあの段状のフロアの連続をそのような詩的形式の類比として考えて見ることが出来る。通常、段差というのは空間の分節点である■4。しかし、House SAのあの連続し反復される段差において、それはもはや分節点としてではなく、あるリズムを担うものとして現われてくる■5。あたかも、散文において段落の分節点である改行が、反復によって詩的韻律を生み出すように。構造体の2×の板材にも同じことが言える。それはもはや柱という分節点ではない。柱−梁−柱に囲まれた開口面がその枠にしたがって完結し、おのおのの面は「加算的」に接続されるのに対し、House SAでは壁は未完結なままに分割されていく■6。そこにもはや明確なスパンの分節を認めることは出来ない。分節は(例えば室の区切りという)機能の分化に結びついているから、その解体は同時に機能の解体でもある。

さらに2×材は戸棚としても使用され、〈隠喩〉的にもその機能的意味を解体される。「柱」でも「棚」でもなく、両者を含む広がりを持った表現【シニフィアン】となるのである。「詩は語と意味とを切り離すというよりむしろ――驚くべきことに――語の取りうる意味の範囲を拡張する」■7。入り口から続く階段部も同様に、目荒しされ、勾配を持つことで隠喩的にガレージの傾斜を示唆し、そこに新たな関係と連続を浮かび上がらせる。

House SAのWCの扉は何故半透明板なのか?普通WCの扉ほど画一的なものはない。通常の住宅では、初めて訪れた家でもWCを見分けることが出来る。坂本氏は(通常WCに求められる)完全な視覚的遮断を放棄することによってWCの記号化から逸脱する。またそのドアにはノブがない。ノブは開け閉めという行為の記号化であり、機能の形態化である。House SAではそのような明からさまな機能の記号は避けられている。結果我々は、その扉を前にして機能と直結せずいわば「遅延されて」それに向かう。

このような様々な修辞的技法【レトリック】によってHouse SAは「構成」■8されており、その「構成」によって、詩が意味内容【シニフィエ】を超えるように、日常性を打破する建築空間を生み出す。空間から機能的意味を剥ぎ取り、建築を透明な記号からそれ自体へと引き戻すのである。

2. 「ブリコラージュ」としての「詩趣」

他方で、レヴィ=ストロースが「詩的叡智」とよぶような意味での「詩趣」がある。レヴィ=ストロースはそれを「野生の思考」の特徴として挙げている。「野生の思考」は論理的一貫性を顧慮する抽象合理的思考によってではなく、その都度の「現象」との立会いの中で神話を創造する。ここに働くのが「詩的叡智」である。その現象への関わり方は「即席に作り上げられ」るものであり、彼はそれを指して「ブリコラージュ」と呼んでいる■9

坂本氏の「選択をしない」「外在的に物事が決まる」■10という姿勢はこのようなものに向かっているのではないかという気がする。無論彼が合理的思考を備えつつ、あえてそれを等閑に付すことは、単純に「野生」に回帰することではない。しかし、彼は記号化、類型化の原理である合理性と距離を取ることによって、改めて現象と立ち合おうとしている。例えば、各辺から走り様々な角度で交錯する線を持ち、捻れていくあの天井面、これは十分に「ブリコラージュ的」ではないだろうか?それは類型的な切妻面を解体しつつ、OMソーラーや境界線というそれぞれの外在的要因に「野生の」仕方で向かい合った結果である(坂本氏自身はこれを「並列的」と呼ぶ■11)。

このような「詩趣」は非合理的で洗練を欠くものとすら思われるかもしれない。しかし「野生の」思考もまた我々の本性に属するものであるとするなら、このような詩趣が我々のうちにある力を呼び起こすということもまた事実であろう。寝転んでHouse SAの天井面を見上げた時に我々が感じたあのエネルギーがその一つの証左である。

3. そして〈世界〉

「詩趣」の二方向は、一見相反するように見える。一方はより純粋な建築らしさを求めるように思えるし■12、他方は原始的自然性に導くように思える。しかし坂本氏にとってこれらは対立するものではない。いずれにも共通しているのは我々にとって日常的な世界が既にして〈記号的〉ないし〈平均的〉世界であり、その打破を試みている事である。それはハイデガー的な現象学的還元、「おのれの示すものを、それがおのれ自身のほうからおのれを示すとおりに、おのれ自身の方から見させる」【"アポファイネイスタイ・タ・フェイノメナ"】■13ことに通ずる。その眼差しは機能として見られた「道具的存在者」からそのものとしての「事物的存在者」へと向かい、そしてより重要なことだが、最終的に「世界の世界性」へと差し向けられる■14。House SAの「詩趣」は決してフォルマリストやモダニストが考えたように自律的藝術を帰結しない。最も基本的なレベルにおいて建築とは物質であり、世界と連続しているからである。故にそれは外界へと開く。

そこにいる間、我々は、建築を感じ、それに向き合う。そしてそれによって、世界と出会うことを学ぶのである。House SAを通じて外の景色も変貌を遂げる。そこから見て初めて山並みの美しさに打たれ、また帰り道、我々の多くが坂道を下りながら、そこにHouse SAの余韻を感じていたのである。多木の言うように「行為は空間として構造化される」■15のならば、空間はまた我々の行為の、意識の質に作用しうる。House SAはその「詩趣」によって、我々に新たな世界との向き合い方を教える。

ただし忘れてならないのはHouse SAもまた決して自律的ではなく、この世界で「生きられ」ていくという事である。いつかはHouse SAも、あの天井やあのトイレも、記号化され透明化してしまうのかもしれない。House SAが今後どのように生きられていくのか、それもまた興味深い問題である。



  1. P.Valery, EUPALINOS OU L'ARCHITECTE, ヴァレリー全集3, 筑摩書房, p.21

  2. この尺度から「詩/日常言語」的な建築の類型が考えられる。それは坂牛氏の「妖怪/人間」にある程度対応するが、詩との形式的類比【アナロジー】によって建築を読むという意図がある。

  3. ヤコブソンは「類似性の原理は詩の基礎である。行と行の韻律上の対応、あるいは押韻する語の音の等価性が意味の類似と対象という問題を喚起する。」(『構造的意味論』)と述べ、韻律と隠喩を詩の特徴に挙げる。

  4. 多木浩二によれば、西洋が垂直壁的分節であるのに対して、水平面のレベル差での分節は日本的なものである。『生きられた家』p.53

  5. スラブの一枚一枚は独立した床面であるというよりいわば襞のように折り重なっていく。このような連続的な空間構成にバロック的原理を見ることも可能である。

  6. 多木は西洋のパラディオと日本の書院造を比較し、前者を加算的、後者を分割的と特徴付けている。『生きられた家』p.42

  7. テレンス・ホークス『構造主義と記号学』(池上義彦他訳)、紀伊国屋書店、p.91

  8. House SAの「構成」は多木の指摘するように、「一方では解体的であり、他方では構築的である」(多木浩二『日常性と世界性』)という二重性を孕んでいる。すなわち日常的な統辞の規則を「解体」しつつ独自の形式をいわば詩的に「構築」する。

  9. レヴィ=ストロース『野生の思考』。「ブリコラージュ」とは職人仕事、その場仕事、寄せ集め、と言った意味を持つ語である。

  10. 『新建築』、p.52

  11. 『新建築』、p.54

  12. この方向はモダニズムの方向であるだろう。坂本氏はしかし、このような単線的な方向を選ばず、再度立ち止まり、見直しを試み、いわば再度世界に耳を澄ます。

  13. 『存在と時間』序論第二章第7節C

  14. 『存在と時間』第三章第17節「指示と記号」

  15. 『生きられた家』p.74

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