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講義
見学2 I邸
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introduction
第1講 anonimity
第2講 parts
第3講 capacity
第4講 form
第5講 smoothness
第6講 tectonics
第7講 color
第8講 intention
第9講 site
第10講 meaning
見学
見学1 House SA
見学2 I邸
見学3 連窓の家 #2
見学4 Gae house
参考文献
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O.F.D.A. associates

坂牛卓 選考結果と感想

岩岡邸は、前回のHOUSE SAに比べると、参照すべきテクストが少なかった。つまり作品が載っているコンテクストを見極めにくかった。その意味では自らの感覚を頼りに言葉を紡ぎだしていかざるを得ず、前回よりも難しかったに違いない。そうした理由からか、今回は前回に比べるとやや低調。皆もがいているなあという風に感じた。ただ、その中で私は、天野君の文章に爽やかな発見を感じた。

天野君の「近いようで遠く、遠いようで近い空」は、授業のスケルトン概念を拡張し、ネガ、ポジという尺度に置き換え建物を観察しつつ、実体としての建築(ポジの部分)よりも非実体的部分(ネガの部分)にこの建物の豊かさが充溢していることを見出した。そして、フラーに棹差し近代批判に共鳴しつつ、ネガの実質としての空の現象を捉え、この建物の大地と空との繋がり(テクトニックな営み)を浮き彫りにするのである。

さて私が爽やかな発見と感じたのは言うまでも無く、ネガの部分に建物の価値を見出した点であるが、その点をもう少し説明しておきたい。

テクトニックな建物が技術や時代や風土を示すだろうことは授業でも説明した。そしてゼンパーもフランプトンも僕もそのテクトニックな側面を建物の「実体」を通して考えていたのである。それに対して、天野君は先ずは自らそういう問いの立て方から出発しつつもそれを180度反転させてみせる。つまり実体から見える事以上にスケルトンだからこそ生まれるであろう、虚の部分に着目することの方がテクトニクスの含意する、「建てること、大地性(或いは空)」へダイレクトに接近できるであろうことを示唆してくれたのである。

余白の美という考え方がある。それをスケルトン概念に適用するなら、例えば図として登場する構造体に対してその地となっている部分の美を考えることである。ネガを考えることはそれに近いのだが、それでも僕らは、その余白を実体としての壁面などと先ずは思いがちである。しかし、その余白が建築ではなく、空だったり、隣の家だったり、地面だったりすることに、或いはそのことのほうが、この建物のとても大事なことが隠されている、或いはもっと一般的に、テクトニックな建物の豊穣さが秘められていることをこの文章は再認させてくれるのである。


近いようで遠く、遠いようで近い空

天野 剛

今回、自分が用いる尺度として「ネガ―ポジ」のモノサシを挙げたいと思う。講義で用いられた「スケルトンとブラックボックス」のモノサシで言えば、向こう側が見通せるスケルトンな部分が「ネガ」であり、見通すことのできないブラックボックスな部分が「ポジ」である。ただ、「ネガ―ポジ」という表現のほうが両者の対比性をより強く感じられるし、反転する関係性を示すことができる。全体集合の部分集合と補集合との関係のような相補的な関係を含めたかったので、「ネガ―ポジ」という表現を選んだ。

今回の岩岡邸の見学で最初に注目していたのは、やはりテクトニックな側面であった。それは、事前に「テクトニック」についての講義を受けていたことや、目を通しておいた資料からある種の剥き出し感を感じ取っていたためだ。例えば、剥き出しになった多くのブレースが象徴的だろう。その他にも、ファサードの二階部分には床材の構造が見えている。その点に関しては直接先生にもお伺いしたが、様々なところを見せているこの建築の特徴を捉えて演繹的にある程度意図的に行われていたものだった。

このように、結果の面でも構想の面でもテクトニックな部分が組み込まれている建築であることは間違いない。テクトニックになるには、大別して二つのパターンがあるように思う。一つは合理性を突き詰めた結果としてテクトニックになるパターンであり、もう一つは表現の手法として用いられるパターンである。この建築においては、前者の面が強いように感じられる。もちろん、ファサードの床材の例があるように後者の面を完全に排除できるわけではないが、当初から強い関心としてあるのは狭いスペースをいかに効率的に利用するかといったことや、短い工期で建てるかといった点であるので、合理性を求めた結果としてテクトニックになっていったといって過言ではないだろう。

そう考えると、少しずつ建築の見え方がずれてくる。建築を読み解こうとすると、当然のことながら建築家の意図の表出として捉えようとする。そうすると、本来結果として表出した建築から建築家の意図へと向かうべき思考の流れが、逆に意図ありきで建築を読み解こうとしてしまう。もちろん、「意図的に」建築から意図を剥ぎ取ろうと試みる場合があるので、一概に解釈のズレだと捉えることできない。だが、テクトニックな部分として表出してくるものを極限までそぎ落としても落としきれないものとして認識するようになると、その見え方に変化が生じたように思う。


写真1

写真1を見ていただきたい。二階のコートは壁も天井もなくオープンになっているスペースであるが、天井の半分にはブレースがかかっている。そのブレースが写真1である。天井の残り半分には何もない。最初にこのブレースを見たときに、なんだかちょっと邪魔な気がした。今思えばかなりの愚問ではあったが、構造上必要なのかどうか先生に伺うと、全部必要なのだという旨の返答を受けた。

「全部必要」というのが重要で、そのブレース(それ以外の構造部材に置いてもいえることだが)は建築家の意志を超えて外的な要因からそこに存在することになる。だとすると、注目すべきものの関係が反転する。自分は最初の段階で、建築のテクトニックな面に含まれている意味を読み取ろうとして、「外的に」必要とされて捨象しきれずに残ってしまった構造自体に目を向けてしまった。「ネガ―ポジ」のモノサシで言えば、具体的に目に見えて捉えることのできる「ポジ」の部分に注目してしまっていた。そのために、構造的に必要かどうかというような愚問が生まれたといえる。必要でなければつけないわけであり、読み取るべきことはそこにはないのは自明であるはずだった。

目を向けなければならなかったのはむしろ「ネガ」の部分、つまり何もなくて向こう側が見通せる部分にあるのではないか。なぜそこにブレースがあるのかというより、なぜブレース「しかない」のかに注目すべきだったのではないか。写真1では、残念ながらブレースの向こうに見えるのは隣のビルの壁であるが、実際にコートに立ったときに見えるのは「空」である。見えるのは「空」であるかもしれないが、それは単に空が見えるというだけでなく、「オープンな開放された空間」、「自然に近い空間」を全身から感じることができた。この建築においては、物質的な「ポジ」の部分より非物質的な「ネガ」の部分にこそ読み取るべき豊かさがあるのではないだろうか。かつてバックミンスター・フラーは、世界の物質的(フィジカル)な側面にしか注目しない物理学を批判し、超物質的(メタフィジカル)な面を含みこんだときに初めて宇宙全体を包含できると考えていた■1。そんな彼が作り出す建築物が極めてスケルトン的な建築であったことは、今回見学した岩岡邸に通じるなにか示唆的なものを感じる。

最後になるが、質問会の中で岩岡先生が「都心に低く住む」というテーマについて言及したときに、この建築の特徴として土地に近いだけでなく、「空」にも近いことを指摘していた。確かに、わずか二階の高さなのにそのオープンなスペースにいると、やけに「空」が近く感じられた。自分はいつも十四階建てのマンションの五階にすんでいる。物理的には地上より空に近いはずだが、そう思ったことは一度もなかった。たとえ最上階の十四階に上がったとしても「空」を近いと感じることはない。そもそも「空」は物質的に明確に捉えられるような類のものではないわけで、物理的に近づこうとすることはできないことは当然といえば当然であるだろう。それこそ「空」には超物質的にしか近づくことができない。その物質的な存在と超物質的な実感とのギャップを考慮すれば、「空」は「近いようで遠く、遠いようで近い」といえる。岩岡邸の豊かさは「遠いようで近い空」を含み込むことに成功したところにあるのかもしれない。



  1. 例えば、R・バックミンスター・フラー(R. Buckminster Fuller)、2000(1968, 1969)(『宇宙船「地球号」操縦マニュアル』(芹沢高志訳)、筑摩書房

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