実践するコンクリート コンクリートの防水と補修について

吉田の名声

 話は長くなるが、この吉田氏の職人ぶりを示す話を紹介したい。私事になるが、ある打放し建物の防水剤として最近一般化されてきたアクリルシリコンのクリア塗装を使うこととした。その塗装はフッ素樹脂塗装とともに耐侯性にかけては勝るとも劣らないものでありコストは三分のニ程度という優れたものである。この塗装は、しかし少し前まで塗布すると打放しコンクリートが濡れ色に変色するという欠点を持っており、その後改良され、三層構成になり、下塗りは撥水剤、中塗りはこのアクリルシリコンの浸透止め色調整、そして上塗りが耐侯性の膜を作るアクリルシリコンなのである。しかしぼくは現場で試供体にこのアクリルシリコンを塗布してみて部分的に濡れ色のむらとなる状態に遭遇した。

 中塗りの調整でこのむらが消えるという謳い文句はどこへいってしまっただろうか。その辺が分からずこの塗装メーカー(これはかなり大手のメーカーである)に聞いてみたのである。その返事は、今の技術ではこの三度塗りのシステムを使ってもどうしてもむらは残る場合があるということであった。そしてこのむらを消す技術を持っているのがニチエー吉田であると教えてくれたのである。ということは現在、打放し仕上げの耐侯性塗装(フッ素樹脂またはアクリルシリコン樹脂)を施そうとするなら、吉田工法なしではむらなしには仕上がらないのだ。

 もちろん、こうしたむらをよしとした荒々しい仕上げも意図的に行われることもあるだろう。安藤氏のコンクリートなどはそういう荒々しい仕上げをあえて施しているようにも見える。

 さて、大手塗装メーカーの技術開発の人間に吉田しか無いと言わしめるその吉田の打放しにかけた40年の営為とはいかなるものなのだろうか? その技術の開発過程は実に紆余曲折があったようである。時代は1959年に遡る、日本に打放しコンクリートの建物が大量に生まれたときである。何処でもその補修に頭を悩ませていたときに、吉田は補修が仕事になると思った。そして一目散にその業界へ突進した。左官経験も、建築の専門教育も受けていない吉田がそれは自殺行為であったと当時を回想している。最初の仕事は補修した部分が時間の経過とともにひび割れ、変色し大失敗に終わったそうである。


コンクリートは一品生産

 悶々の日々を送っていた時に公園の擬木を見てこの技術を得たいとその左官屋を訪ねたが、左官職50年の技術は秘中の秘ということで教えてくれなかったそうである。また先述したとおり、コンクリートは極端に言えば一品一品色が違う訳であるから、それを補修したあとでは地の色とテクスチュアに復元するために補修面に周囲のコンクリート同じテクスチャーの絵を描かなければいけないのである。この描く画材に悶々の日々が続いたそうだ。その時左官屋の食べ残しの弁当の蓋に注いであった醤油を不用意に床に撒き捨てそれが打放しの柱に飛び散った。ところがその醤油のしみがたまたま打放しの木目模様の色合いに合致し、悩んでいる問題を解決するヒントになったようである。

 コンクリートの色についてはこんな話を聞いた。一般的にコンクリートはグレーなものだが。それは多く骨材、特に砂の色で決まる。吉田の地元浜松では天竜川の砂が使われ、これは一般的なグレーの砂。しかし名古屋の仕事をした時に非常に茶色いコンクリートに遭遇した。これはもとを辿ると、そのコンクリートの砂が愛知県の矢作川から採取されたもので、茶色っぽい珪砂を多く含んでいるということが分かり合点がいったそうだ。また関西では海砂が多く使われそれは白っぽい。沖縄は珊瑚が砕けた砂が多く大変白い。しかしコンクリートの色を決めるのは骨材だけではなくセメントの色によるところも大きくこの点で大失敗をしたそうだ。補修用の樹脂モルタルは現場でそのコンクリートに合わせて顔料を混ぜて調合をするのだが当時まだ駆け出しの頃は地元の仕事が多く地元のセメントを使って補修モルタルの調合をしていた。県外の仕事もするようになった時、運送費を減らすためセメントは現地調達することにした。しかし、ある完成した現場を見てまったく色が合っていないのを発見した。その原因はそれまで県内の地元のセメントで色調合することに慣れていた職人が県外の違う場所の違う色のセメントでの調合に眼が効かなかったということだったそうだ。それほど産地の違うセメントは色が違うということだ。それ以来、県外の仕事でも、セメントは地元から輸送するということにしたと言う。

Prev Next