窓を巡って

[図3]
連窓の家 #3 窓図
部分


部分としての窓

 建築に限らず、思考の過程でも良いが、一般に何かを構築するときはその構築の全体形のようなものを懐に持っているものである。それは形であったり、概念であったりするのだが。そして作りながら、あるいは書きながらその根拠に照らし合わせて、その全体形から脱線していないかどうか考えてみる。そうするのが普通である。さて実際に建築を設計していく中で、この線路から脱線しそうになって慌てることがある。建築の設計は、この脱線をどう逃れるかということであると言っても過言ではない。しかし果たして、この脱線は悪いことなのかと考えてみる。脱線が悪いのは事故を起こすからだが、それなら線路の要らない自動車に乗るということを考えたらどうだろうか。つまり構築の全体形を事前的に持たず、走りながら行き方を考えていくというのはどうだろうか。つまり全体の形を内に秘めて進むのではなく、部分を部分の要求に応じて進むという状況をつくれないかということである。そこで建築の中の部分を探してみる。建築は空から全体が降って湧いて来るものではない。部分の集積として出来ているわけだから、すべては部分だと言うこともできる。しかし、所謂主要構造部というもの(柱、床、壁)は建築の全体をシステマティックに構成する構造の一部分として、ある全体性と強い関係を持っている。また建築空間というものを考える時は、それを構成する床、壁、天井というものが空間を構成するものとして、やはりある全体性との強い関係が発生する。そういうように見ると、窓という部分は建築の全体性を構成する主要な部分ではないということが理解できる。またこうした、構成的、概念的な枠組みの中だけでなく、視覚的に見ても、窓は壁という背景の中で部分として認識されることが多い。


部分が部分であったり部分でなくなったりすること

 さて、この窓という部分を全体と同時進行的に建築を考えていく軸に据えていく。そしてなおかつ単眼的にこの部分のみを浮き上がらせるのではなく、この部分性が全体性の中に溶解していくような、ある主張とその逆概念の絡みができないだろうかと考えてみた。例えば図と地の絵を想起してみよう。1枚の真っ黒い四角い紙がある。便宜上A4縦使いに置いてあるとする。この紙の上に5cm角の白い正方形の紙を置いてみる。この時確かに白い紙は黒い地の上に図として見えてくる。さてこの白い紙を少し変形して、横長の長方形にする。それでもこの白い紙が黒い紙より小さいうちは、白い紙は図である。さてもうちょっとこの白い紙を引き伸ばして、下に敷いてあるA4の黒い紙と同じ巾の長方形としてみよう。そうすると下の黒い紙は、白い紙で上下に二分されたかたちになる。そうするとどうだろう。この白い紙はすでに図とは見えなくなる。

 ここで白い紙を窓に置き換えてみるならば、この実験は窓が延長という操作によって、全体の中に溶解する場合があるということを示している。つまり窓を部分として扱いながらも、壁という地の面を突き抜け縦横無尽に次なる面へと連続することで、部分でありながら部分性が消えていく瞬間が生まれる。部分を鮮明化しつつも、それが消滅しても見える。ここに、延長という方法の意味が生まれる。

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