窓を巡って

住人


眼差し

 建築が住人の意識に持続的に関わるなどということがありうるのだろうか。住宅がその住人にとって生きられたものとなっていくことを考えれば、どれだけ素晴らしい建築であろうとも、それは住人の意識の底に下降していくであろう。それは人が物に対して、常に意識的であることはないからである。一方、人は人に対しては意識的にならざるを得ない。だからここで考えてみたいのは、住人が窓を介して人と視線的にどう繋がるかということなのである。

 窓は辞典的には採光、日照、通風、展望という機能を持つ。しかし辞典的な説明とは別に、窓の重要な機能は人を見、あるいは人から見られるという点にある。見られる問題は後で述べるとして、見るということはどういうことか?

 人を見るためにわざわざ窓を設置するということはないように思うが、しかし建物が自然の中に孤立していない限り、地上レベルの窓からは外部の人が見える。また建築内部において室間において、壁に穿たれた窓というものも同様に人が見えてくる。そして人が見えるということの意味は大きい。窓から人が見えない。これは不気味なことである。人が見えることであるいは人影が見えることで世界がいつもの世界であることを確認する。

 人を見る時の人の意識が風景を見る時と異なるのは、単に人を見れば世界が確認できるということに留まらない。人を見ることは同時に、その人から見られるということをも意味する。クライアントと打合せをしていて、開口部の議論の半分は内外を問わず何処から見えるか見えないか、というようなことである。また写真で見たときはガラス張りの建物が、行ってみるとカーテンでぐるぐる巻きにされていたというのもよく聞く話である。それほどかように窓は見ること以上に、見られるという問題を内包する。ある高名な哲学者はこの見られる状態の中に、自らの意識ではどうにもならない不自由さが存在することを指摘した。この不自由さはもちろんその見られる相手に依るところもあるわけで、外部からの眼差しと内部間での眼差しではその意味あいはかなり異なるであろう。内部においては、人を拘束するような眼差しの交換という側面に加え、家族の関係を密にする楽しげなものとなる可能性もある。


開くことと閉じること

 さて、見ること見られることは、すべての窓において起こることではない。外部的には確実に空しか見えないあるいは海しか見えない、というような窓を作ることができる。つまり、人が現れない窓を設計することは可能である。既述のとおり人が現れない窓は、同じ窓でも人が現れる窓とはその質がかなり違う。片方が眼差し的に開いたものであれば、片方は閉じたものと言っても良い。一方内部に作られた窓は分節を緩和し、眼差しを介して柔らかな流動体へと空間を開いていくことに寄与する可能性も持っているであろう。つまり窓は縦横無尽に連続的に延長することで、眼差しを介して開き閉じるという二つの性格を共存させる。一続きのどこかに性質の変極点が生まれる。その点を境に開いた窓から閉じた窓へ、閉じた窓から開いた窓へとその性格が傾斜する。そしてこの傾斜故に人はただリテラルに開かれた窓より、一層開く状態に自覚的になると期待するのである。

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