可能性の包容

11.
例えば、芦原義信『隠れた秩序』中央公論社(1986年)では、東京の街のカオス状態の裏にリダンダンシィ(いい加減さ)を内包した秩序があると指摘している。
III包容力

 都市の持つ属性はその善し悪しを別にして多かれ少なかれその都市が展開していく上でのある規範(パラダイム)とならざるを得ない。その意味で両都市は相反するパラダイムを保持している。

 しかしパラダイムは常に一定でそこに連続的進歩が約束されているわけではない。科学においては、変則事象によってパラダイム危機がおこり断続的転換がおこる。一方、都市においては既存の実体に制限され、瞬時の転換がおこることはあり得ない。そこでは進歩という言葉が適切かどうかは別にしても、連続的な展開にならざるを得ない。しかし科学同様この展開の過程において、都市の場合も多くの変則事象が生まれる。その時その変則事象に対して既存のパラダイムのあり方を規定するメタパラダイムがどの都市にも備わっている。それはその都市における建築的実体はもとより、政治、経済、歴史、国民性、風土、といった多くの要素の結合によって醸造される。例えば、イタリアの歴史都市のようなところでは、既存のパラダイムを変容させないメタパラダイムが働いている。また、歴史的意味が豊富な場所でも、その認識が希薄な場合は変則事象によって既存のパラダイムは崩壊への道を歩むこととなる。

 ではロスアンジェルス、東京という二つの都市はどうなのか?

 既に見たように東京では異質の混在する高密度空間において変則事象は衝突となって現象する。しかしその衝突は新たな秩序レベルを獲得する。そこでは周囲が巻き込まれながら新しい全体へと組み変わるようなメタレベルでの包容力を持っている。(篠原の指摘以後、無計画の混乱の中に新たなる都市のあり方が模索され始めている。つまり様々な異質な表現の衝突の中で、新たなる秩序が構成される予感を持ち始めている*11。 )

 一方ロスアンジェルスではそもそも、変則的な新たな投入物が周囲の環境から異常なまでに突出して見えることは希である。それは既述のとおり、単調な表皮で覆われることが多く一定の調和が保たれるためである。またたとえこの表皮を纏わない時でも建築的な密度感が希薄なために隣接建物との連続感が少ない。更に車での移動が支配的なこの地では、車窓の景観から消えかかる建物のファサードは都市の実体とは緊密な関係を持ち得ない。希薄な都市性の中で変則が変則足り得ない構造をもっているのである。

 つまり両都市において既存のパラダイムは変則的な新たな事象(可能性)に対してそれを否定するのではなくまたそれによって崩壊するのでもない。いずれも変則事象を包容していくのである。両都市は「世界の中枢的な役割を担った都市」として存在するにも関わらず都市の一般的属性を逸脱し、さらにそのことによって「可能性の包容」という共通なメタパラダイムをもつ。そしてこのメタパラダイムに規定されるパラダイムは都市が展開する上で論理的な一貫性を欠き多くの可能性を飲み込んでいくという意味において冒頭モスが指摘するとおり非論理的なのである。

 ロスアンジェルスと東京がリドリー・スコット描く未来世界『ブレードランナー』の舞台に取り上げられたのは、単にエキゾティシズムとフューチャーをすり替えるために選ばれた東京ではなかったろうし、撮影の都合上選ばれた地元ロスアンジェルスでは無かったろうと推測される。それは未知の世界を、未来の可能性を包容できる場として必然的に選ばれた都市であったのではないだろうか。

『GA JAPAN 38』1999年5月号 初出
『篠原一男経由 東京発東京論』、鹿島出版会、2001 所収


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