素材と建築デザイン
 坂本一成 
[東京工業大学教授]

 坂牛 卓 
[建築家、O.F.D.A.アソシエイツ]

 奥山信一 (司会進行)
[東京工業大学助教授]

本稿は2001年8月23日[木]に坂本研究室で行われた対談の模様を、『華』編集部(担当:山崎)がレポート・編集したものであり、文責は編集部にあります(敬称略)。

素材をめぐる現在の建築デザインの状況

 奥山  今回のテーマは「素材と建築デザイン」です。「素材」というのはかなり広い概念で、いわゆる建築材料といった実体としてのエレメントという意味も当然ありますが、今日はその範囲を少し越えて、「物質性」と「空間性」というような水準で建築デザインと素材がどう関わってくるかということをお話しいただきたいと思います。
 まず現代的な状況についてですが、最近銀座にレンゾ・ピアノのエルメスのビルができましたが、あの全面を覆うガラスブロックの使い方には、あの建築の表現的なレベルが集中していると思われます。また、そのすぐ近くに青木淳さんが設計したルイ・ヴィトンがあり、ガラスという素材の新たな可能性が示されている、といえると思います。
 そういう意味で現代の建築的状況というのは、素材というものの扱い方とけっこう密接に関わっている。まず、そのあたりの実感からお話しいただけたらと思います。

 坂本  奥山さんの今のお話から、今日のテーマは「素材と建築デザイン」つまり建築の表現の問題ということになりそうですね。それでは、この座談が『華』に載ることから、始めにおことわりしておくことがあります。当然のことですが、基本的に建築材料は即物的・機能的なもので、強度とか耐久性とかといったエンジニアリングの課題が前提にあるということです。そのことを学生たちには知っていて欲しいと思います。これからの話はそれを前提としたデザインの話として進められるということです。
 近年、奥山さんが例に挙げたような建物に限らず、テクスチャーも含めて材料が持っている物質的な性格、たとえば光は通すけれども視線は通さない材料といった、素材の性格的な面に特に注目した建築が多く見られます。また金属や木材の質感といったことを大事にすることもあります。この10年来のスイスの建築の評価には、素材が持っている「物質性」みたいなのものとの関係があるような気がするし、また技術的な問題との関わり方で評価されてきた所もあると思います。しかし、技術的に新しい展開をしたということで評価されるわけではなくて、それをいかに建築の「表現」と重ねることができたかということで評価されると思うのです。
 そういう意味でレンゾ・ピアノのエルメスに関しては、大きなガラスブロックをあれだけ大量に使ったものは今までなさそうな気がするし、また外側に支持材を見せないで大きな一枚の面で構成していることが感覚的に新しい建築と見ることもできる。あるいはパリのピエール・シャローの「ガラスの家」を思い出しますが、それと比べて内部空間の質の違いも感じさせてくれる。そういう意味では、素材自体ががかなり大きく空間に影響して、それが決定的にしている建築だと思います。

 坂牛  ヴィトンもエルメスも見まして、坂本先生と同様の感想を持つのですが、それ以前にもヘルツォーグが出てきたあたりから非常に「素材性」というものを意識的に表現に据えた建物が増えています。
 そのあたりの素材性というものを人間が構築するものとの対比で捉えたヴァレリーの考え方は示唆に富んでいます。ヴァレリーは神秘的な領域で語られていた詩を徹底して技術的に作ろうとした人ですが、人間の技術、あるいは作る意志でできたものに比べると、そこからはみ出したもの(彼はそれを「自然」と呼ぶのですが)の方がはるかに複雑であると「芸術についての考察」に書いています。
 それを建築にあてはめてみるなら、建築家が作った「形式」に比べると、その作る意志からはみ出た素材自体が持っているものははるかに「複雑」であり多様だということです。近年の素材性は、実はその多様性を見せているという風に僕は感じます。その意味で単に素材性というのではなく、素材の「質料」を見せている。そういう「質料性」というのは、モダニズムのさまざまな表現領域の中で随時噴出してきていて、その1つが建築でいえば70年代のポストモダンだったかもしれません。しかしあの時には、とくに日本では歴史主義に回収され、「質料性」のようなものを誰もきちんと議論しなかった。それが再度明確に素材というかたちで出てきているのだと思います。
 たとえばヴィトンにしても、ガラスの上の模様は装飾という感じ方もあるかもしれないけれど、ガラスが透明なものだというある種の習慣的な概念を一度捨象して、もう一回その「透明性」あるいはガラスの見えなかった局面を抉り出すためにああいう方法を取ったのではないかという気がします。ヘルツォーグたちの材料の使い方も、材料のCTスキャンのように意図的にその中身を切り取って見せている感じがします。

 奥山  坂本先生は、「建築的な表現」と「素材自体の問題」という言い方をされましたが「建築的な表現」というのがどのような内容を言い当てていらっしゃるのか、もう少しお話ししていただけますか?

 坂本  材料の物理的な性格によって、適材適所に配分されることによって建築ができているはずと冒頭に言いましたが、実際はそう単純ではないわけです。もしそうならばすべての建物が同一の材料になってもおかしくないわけです。でも実際にはそうならないということは、違う物が使われたり違う使われ方をされることで空間自体の意味や性格が変わってくるからです。実はその意味や性格が変わってくること自体が建築の「表現」になっている。だから新しい材料・素材は、ただ見出すだけでなく、空間化されることによって「表現」になるわけです。その表現に現在多くの関心が向いているのではないかということです。
 ところで、僕はどちらかといえば空間的な構成が前提にあって、「この材料を使ったらどんなものができるか」ということを考えることはあまりなかったと思います。まず空間構成のイメージがあって、その空間を作るために一番適切な材料を選ぶというスタンスをとるわけです。まずそれは耐久性など性能の問題として決まってくるわけですが、その中で一番自分のイメージと合う材料に、材料の物的な性能以上の「社会」が与えてきたさまざまな意味・イメージが問題になるわけです。たとえば大理石は普通では使えない高級な材料だとかといった、そのものの機能的・用途的な意味とは異なる別の意味が付着しているわけです。建築を作るときに物的な性能と同様にその社会的意味が空間を仕切るわけで、それをコントロールする必要があるし、ある時にはそれを排除することが必要なわけです。だから材料に付着している意味の操作をすることが、素材の操作であったという気します。

 奥山  坂本先生は設計活動を始められた1960年代後半に、「閉じた箱」ということを最初に言われていましたね。それは空間の形式を端的に表していると考えていいと思うのですが、それとほとんど同時期に「乾いた空間」ということを表明されている。その「乾いた空間」とは形式の問題ではなさそうで、場所の空気なのか雰囲気なのか。だけどそれを作り出しているのは実体としては素材や物質かも知れない。
 先生はイメージしている空間があってそれに差し障りがない素材を選びたいとおっしゃりながら、どこか素材自体がもたらす質みたいなものも同時にイメージされているはずだと思うんですが、その辺はいかがですか。

 坂本  確かに、ほとんど同時に「乾いた空間」を求めたいと言っていたのです。それは空間や形式がどうであろうと材料によって作られていくある種の空気で、雰囲気による空間と言ってもいいと思うんです。
 「閉じた箱」という形式をクリアに表現したいために感覚的に乾いた空間と言ったわけですが、乾いた空間というのは、そのものが何らかの「意味」の綾織りによって作られるような感性による空間ではなくて、そこから独立した「閉じた箱」という空間の形式が即物的にあるような場所、そういう空間にしたいということが「乾いた空間」という言い方をしていたのだと思います。

Next