素材と建築デザイン


 奥山  その物質のもたらす意味のようなものですが、社会がどのように物質が持っている意味を許容し、対応してくれるか、それは「現代性」という問題と関わるかもしれません。それが先生が仕事を始められた60年代後半から70年代あたりと現在とでは、かなり異なっているような気がします。
 それは建築の文化的な側面だけじゃなくて設計組織や施工組織をも含めた上での生産的な問題だと思うんです。たとえば、坂本先生が仕事を始められた60年代後半はハウスメーカーがそんなに大きな脅威ではなかったはずですが、70年代後半から80年代、そして現在では住宅生産のかなりのシェアを占めている。また住宅といえばハウスメーカーという意識は一般の人たちの中でかなり擦り込まれているし、そこで使われている素材がもたらす物質性というのは我々建築家が住宅を設計するときに常に突きつけられる問題です。
 坂牛さんは日建設計という日本で一番大きな組織で都市的な規模のハイグレードなものに携わっていらした。その後、現在では個人のアトリエを作られて、日建設計の時とは違った、住宅的なものを素朴なレベルで作らなければならない。その両方を体験されて、社会の中で流通し、僕たちが相手にしなければならない物質性をどのようにお考えになっているのか。坂本先生は、いくつかの公共的な集合住宅など、戸建住宅とは建築生産のシステムが全く違った設計をする時に、先生がそれまで試みられてきた物質の扱い方が通用したのかしないのか、そのあたりをお話しいただきたいと思います。

 坂牛  例えば100平方メートルの住宅を作ることが100字の詩を書くことで、1万平方メートルのオフィスビルを作るのが1万字の論文を書くことだと考えてみます。言葉というのは、何か書きたいと思ったものを言葉にして文節にして文章にする。建築の作業にそれは似ていて、建築を作るある意志があって、材料を部材にして、それが合わさって構成部材にする。これは文章でいえば文節みたいなもので、その構成部材が全体として組上がって文章になり建築になる、ということだと思うんです。
 さて、大きな建物には技術で解決しなきゃいけない問題が住宅よりはるかに多いという宿命があります。その技術は誰が持っているかというと、大きな事務所はそれだけのノウハウを持ちきれなくなっており、分野ごとの専門メーカ−が開発研究を重ねストックしています。ですから組織の文章は意図を言語化するところからメーカーに多くを負っているのです。もちろん詩を書く住宅建築家も制度的な言葉を持ってきてそれを並べているわけですが。問題はその先で、その言葉の組み合わせ方、つまり構成部材の作り方が論文の場合はルールが多い。要求技術レベルが非常に高くて建築家の力だけではできないということが多く発生します。一方、詩を書く人たちはそのあたりはかなり自由です。その昔は日建設計みたいなところの技術力は相対的に高く、優れた先輩方がどんどん作り込んでいった。そういう中では、パレスサイドビルなんか見ればわかりますけど、言語にするところから建築家がやっています。ただ建物への要求水準は上がるわ法規は複雑になるわで、建築家はオールマイティを要求され、技術はメーカーにということになってきているように思います。

 坂本  住宅もかなり部材に分かれて製品化されてきて、その部材をどうアッセンブリーすれば全体ができるか、ということに設計の重心が移っているところがかなりありますよ。そういう意味では時代自体が良い悪いは別としてそういうところへきていることは事実なんでしょうね。

 奥山  たとえば「熊本市営託麻団地」(cf.10)は公共の大きな仕事で、松永安光さんと長谷川逸子さんと坂本先生の三者の設計が、ひとつの敷地で共存する作り方でした。あのとき多木浩二先生が来て、空間の形式ではなく、モノ自体が訴えかけてくる水準で「露骨に坂本さんのテイストが出ていますよ」という言い方をしていました。長谷川棟には長谷川さんのテイストが出ていると。同じグレードを要求された公の仕事であってもそういう実体に対する感覚的な表現があらわれてくるところが僕は面白いと思うんです。さきほど坂牛さんがおっしゃったように、大きな仕事の場合、組織ではその表現が均質化する可能性があるわけです。坂本先生はそれほど意識されていないとおっしゃるかもしれないけれど、いくつかの仕事を振り返ってみてどのようにお考えですか。

 坂本  たとえば集合住宅のような規模の大きなものは、1つのディティールのミスが大きく影響するわけで、それはたぶん量産化するような住宅でもそうです。たまたま1つの建物の1ヶ所のミスが、1つの建物だったらそこだけの問題で済むわけですが、それを100個集めれば100箇所となるわけで、そういう技術的な確かさの問題が常に裏側にある。そういう意味で大きなものになればそのプレッシャーは強くなってくるでしょう。ただ、建築設計がアッセンブリーに近づいているといっても、やっぱりアッセンブリーの仕方のうちに、社会に対してその空間がどうあるべきなのかの反映があると思うんですね。ですから奥山さんがテイストと言ったけれど、選択の範囲で出てきますね。

 坂牛  もちろんティストという部分はありますが、素材に対して社会が与えた意味というのは大きい。たとえば木は自然なもので温かい、石は重厚で高価なものだというような記号的な意味は、設計者が意見する前にクライアント側が強く意識しています。それは、大企業の建物が社会を相手にしているからです。その意味で大組織事務所は社会制度の歯車として今や抜けきれないところがある。戦後すぐのような状況下の時はたぶんお互い記号性が非常に希薄で、1から素材を吟味していけたと思います。しかしその後組織事務所は、素材の記号性を頼りにクライアントを教育してきて、その教えたことからまた逃れられない。自分たちで制度を作ってきましたからそう簡単にそこから抜け出ることは難しい。

 奥山  坂牛さんはそういう経験された後で独立し、住宅を作り始めているわけですけれど、そのへんの感覚どうですか。

 坂牛  住宅の場合も特にこういう住宅・建築ブームの世の中においては、当然クライアント側が材料に付着した意味を知っているというのは同じだと思うけれど、会社が作ってきた制度に縛られるということは無い分だけ、気が楽になったと思います。

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