質料としての素材考  美学のフィールドからの視線

―質料における素材―

 坂牛  質料全体およびその一部としての色の問題をうかがってきました。次に素材に備わるテクスチャーが美術・美学の中でどう扱われてきたのかをお話いただけますか。

 谷川  理論の歴史で言うと、アロイス・リーグルが「ハプティッシュ(触視的)」と「オプティッシュ(視覚的)」という概念をつくりました。
 かなり曖昧な二元論なのですが、視て触っているような感じがハプティッシュで、ただ視えるというのがオプティッシュ。つまりザラザラしている、ツルツルしているというのはハプティッシュです。
 一般の芸術史の教科書では、リーグルを「芸術意志(クンストヴォルレン)」という言葉を考案し、ゼンパーに対立した人物だと書いてあります。しかし「ハプティッシュ」と「オプティッシュ」という概念が最も重要だとぼくは思うんです。これは、ゼンパーが多色性や材料と色との関係を考えようと主張していた時期と期を一にしています。ヴェルフリンの言う「絵画的」というのも「ハプティッシュ」の概念だと言っていいでしょう。
 またグリーンバーグの「オプティカル・イリュージョン」という概念が、建築材料を考える上で有効に思えます。これは古典絵画のように絵画空間の中に入り込んでいくような幻想ではなく、ポロックの絵に眼が吸い込まれていくような幻想です。二次元性を感じさせながら同時にある種の深みを思わせるようなイリュージョン。これを建築に適用することができるのではないでしょうか。例えば、安藤忠雄の打放しコンクリートに対面した時、本当にコンクリートの肌理を視ているのだろうか、という疑念があります。そこにはコンクリートを透過してしまっているような、むしろ物質性を感じさせない観念性があります。剥き出しの素材だからといって、必ずしもわれわれの意識がそれと対面しているわけではありません。ある種のオプティカル・イリュージョンの中にわれわれは常に生きているわけです。剥き出しの内臓を想わせるチューブを顕わにしたポンピドゥー・センターは最初こそ醜いとの非難がありましたが、完成してしまうとそれを非常にシンボリックなものとして視てしまうということがあります。

 坂牛  それは、素材のテクスチャーを志向しても無意識のうちに眼は形に向かってしまうということでしょうか?

 谷川  そこが難しいところですね。空間の質、光、形や大きさなど全てを含んで出てくる問題だろうと思います。例えば、アメリカに行く前の荒川修作は、箱の中にコンクリートの塊をポロッと置いたりしていた時期があるんですよ。一種のボックス・アートが流行ったんですね。それはコンクリートの塊そのものとしか見えない。素材性がもろにこちらにぶつかってくるのです。ところが、コンクリート打放しの壁を目の前にしても、あまり素材性は迫ってこなかったりする。素材の持つ問題というのはそういう微妙なところがあると思うんです。

 坂牛  そうですね。私もある時70人くらいの学生に、建築の質料と形式を見てこい、それぞれ2枚の写真を撮って、考察をせよ、という課題を出したんです。すると、10人くらいが、それはできないという答えを持ってきました。形式と質料を分離して建築を体感することはできない、と。そこに建築の素材論の難しさがありますね。

 谷川  それはある種の現象学的な問題ですね。例えばコンクリートそのものを見るためには、現象学的還元を行わなければならない。そこにまとわりついたコノーテーションを意識的に排除しないと、素材性は迫ってきません。

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