質料としての素材考  美学のフィールドからの視線

 坂牛  建築では昨今、ミニマリズムが目につくようになってきています。ミニマリズムを冠した書籍も多く出ている。これをモダニズム再来という人もいますがそれはちょっと違う。60年代にジャッドなどがやっていたミニマルアートに近い。そんな状況が生まれつつあります。そして同じミニマルの中にある差異は素材性です。単純ですが、非常に素材性を持った建築が増えてきています。

 谷川  素材の問題は、美術ではランドアートと密接に関係します。砂漠に溝を掘ったり雷を導いたり、土や水など宇宙の四元素と戯れるという非常に素材性がかった芸術活動ですが、実は彼らの出発はミニマルアートです。それは、ジャッドを典型として、純粋幾何学形態をポロッと出すという芸術ですね。ところが同時に、例えば布をかけたり、画廊に土をぶちまけるのもミニマルアートと呼ばれていたわけです。つまりある種の素材への回帰という傾向を内に孕んでいたんです。それが画廊の中で我慢できなくなって外へ出ていったものが、ランドアートあるいはアースワークと言われているものです。ちょうどそれが60年代なのです。ミニマルからランドへの拡大変貌があるんですね。ぼくはここに60年代の変化が最も集約的に出ていると思います。ポップアートよりもこちらの方がむしろ重要だ、と。そこには素材性の問題が孕まれています。形と素材の問題が……。

 坂牛  素材の問題が歴史的に常に人を惹きつけてきた本質的な理由は何なのでしょうか。

 谷川  物質(マテリエル)が好きなんだと思いますよ。シラーが、形式衝動と質料衝動という非常に不思議な概念をつくっているんです。質料衝動というのは最初は子供の時に現れます。例えば母親にいくらしかられても、砂遊びや泥遊びを繰り返す。ところが、そのうちに、山やトンネルを造ったり、形で遊び始めます。それを形式衝動が出てきた、と考えるわけです,そして年をとるとまた質料衝動が強くなるのですよ。痴呆症例にある毛布をむしったり自分の汚物にまみれたりといった行動は――シラーが言ったことではありませんが――形式衝動が崩れていって、質料衝動に回帰していくことだと思います。

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