質料としての素材考  美学のフィールドからの視線

時代はバロック

 坂牛  その質料衝動は多分チャールズ・ジェンクスが『ポスト・モダニズムの建築言語』を書いた70年代半ば、ポストモダン華やかしかり頃、そのある部分に照明が当てられた感はあるのです。でもやはり、主流はヒストリシズムでしたから、日本では根が付かない、基盤がないですからサッと消えていった。

 谷川  日本では様式の折衷という形で捉えたでしょう。そこには廃墟趣味と呼べるようなものも出てきました。例えば磯崎さんにとっての廃虚は、戦後の焼け跡を見たニヒリズムみたいなのがあるようでした。しかし廃墟趣味の背後に潜んでいる質料性の問題はあまり議論されませんでしたね。
 ヨーロッパで廃虚が一番ブームになったのは18世紀、新古典主義の時代です。ローマ建築を模した禁欲主義ともいえる壮大でモノクロームの建物が造られた時代。その時に廃墟趣味がおきたのは、新古典主義の中に巣くっている質料性の問題が出たのだとぼくは思います。アメリカの文化史家バーバラ・マリア・スタッフォードが著した『ボディ・クリティシズム』では、解剖学の発達と廃墟趣味は期を一にしているとされている。つまり人間の皮を剥いで内側を見ることと、表面が崩れて素材性が剥き出しになった廃虚に対する感性は非常に似ているのだ、という指摘です。ピラネージが描いた銅版画の廃墟と当時の解剖図を並べてみると、確かに似ている。絵画の新古典主義では、女性の肌はシミや皺ひとつない真っ白な肌が描かれています。その時代に廃墟趣味が出たのです。それは抑圧された質料性の回帰だとぼくは思うのです。
 廃墟とは単に様式の折衷というポストモダニズム的な問題だけではないんだと思うんです。廃墟が時折ブームになるのは、素材の持つインパクトに対する欲求もあると思います。

 坂牛  今のお話のような廃虚趣味的質料の噴出がある一方で、カウフマンの言うように、ルドゥーやブーレの新古典主義があって、それがカントの影響を受けて自律的な形態に進んだのがモダニズムの始まりだとするストイックな新古典〜モダニズムという流れにおいては、やはり質料性は抑圧されるわけですね。

 谷川  抑圧されます。それでも質料が時々出てきます。それをバロックと言ってもいいと思いますけれどね。モダニズムという概念だけで100年のスパンを規定できるはずはありません。実は伏在して反モダニズムの傾向はずっとあるわけです。それが時々出てくるのです。

 坂牛  現代はそういう伏在している反モダニズムが噴出している延長上にある、と言っていいのでしうか。それともある時代が終わっての今なのでしょうか。

 谷川  エウへニオ・ドールス流に言えば、クラシックに向かおうという欲求とバロックに向かおうという欲求は、時代や民族に関係なく永遠に、同時併行的に存在します。一方でグリーンバーグは、線的な時代とバロック的な時代が大体交互になっていくと見ています。ですから、どういう視点を採るかに依るのですが、ぼくは時代はバロックだろうと思っています。

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